同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その10

この頃になると、地上波のテレビはコンテンツとしての力が弱まっているような機運の高まりが感じられるようになり(とは言っても一時期ほどの絶対的な力が薄れた程度ではあるが)、元々2010年代から存在したらしい「ニコニコ動画」を始めとする動画サイトにコンテンツとしての機能が推移していった時期であった。なお私自身は大学でOfficeツールによりレポートの提出が必須となる大学2年時まではWindowsに触れておらず、家庭ではMacのPCでiTunesによって音楽を聴いたりインディーズのゲームをプレイしたりするような用途でしか使用していなかったのである。自身が中高生である時分に流行っていたらしい「ニコニコ動画」の文化については、大学に入ってサークルの先輩方からノリで学んでいった形である。
先に述べた通り動画サイトのYoutubeを頻繁に視聴していたのだが、当時のYoutubeでは楽曲以外にも「ゲーム実況」というジャンルの動画が投稿されていたのも特徴的であった。一昔前に人気を博していた「東方」のキャラクターの首から上のみにして簡略的なモーションを一通りライブラリに揃えているナビゲーターに解説をさせる動画も多く、これらは挨拶として決まり文句になっていた「ゆっくりしていってね!!!」というフレーズからその名がついたとされる「ゆっくり解説」なども挙げられる。
私がこの頃に視聴していたのは、動画内ではキャラクターに会話をさせてゲームをプレイする様子を見せる配信者「たくっち」「ぽこにゃん」等の方々である。ゲームの種類としては、アクションゲームのステージを自分で作成できる「マリオメーカー」や、仮想空間でのやや原始的な生活を体感できるPCゲームの「マインクラフト」等が挙げられる。他にも携帯のアプリゲームや当時に発売したものなど注目度の高いゲームがジャンル問わずに紹介されていて、とても面白いコンテンツであった。
もう一つあったのは、ニンテンドーDSの上位機種である「ニンテンドー3DS」の本体に内蔵されていた「うごくメモ帳」を用いて、お笑い芸人のネタのアテレコを棒人間や任天堂のキャラクターに再現させる(ニコニコ動画からの流れで、マクドナルドのマスコットキャラクターであるドナルドの姿も変わり種としてかあった)紙芝居のような動画が流行していた。主なネタ元の芸人は「陣内智則」「超新塾」「浅越ゴエ」などの、文字情報がメインとなるネタやギャグが多かった。
生活の中では、先に述べた楽曲垂れ流し動画をレポート作成と同時進行で視聴しているのに対して、ゲーム実況の配信は寝る前や余暇の空き時間が費やされるケースが多かった。元来、休日でも朝は7時には覚醒していて日中でも問題なく活動出来ていた私であったが、大学生の頃から朝が遅くなり、また昼食後の講義中に睡魔に襲われるケースが増えてきたような気がするが、恐らくはYoutube視聴の習慣による生活リズムの乱れが原因なのかもしれない。

2014年7月23日、私は数え年で20歳を迎えた。
この日は平日であり、前期の講義テストが目前の時期でもあり普通に講義に出席するのみで終わる予定であったのだが、青山キャンパスでは落語研究会の部室に頻繁に集まっていたメンバーで食事をしている(何か決定事項もあったかもしれないが、詳細は覚えていない)そうで、18時頃に同期の部員から電話がかかってきた。「特に用があった訳ではないが、暇だったらどう?」くらいのノリである。家族から誕生日の祝いを受けるかもしれないとも考えたが、呼ばれているなら行くくらいのノリで渋谷へ向かっていた。
現地では、何のこともなく普段からよく行っていた居酒屋で6人くらいが集まってダラダラと話すだけで誕生日であった事については簡単にしか祝われないのだが、やはり青春の1ページとして語るには不足ない1日を過ごせたと言えよう。個人的には変に特別扱いされるのもやや苦手な性分である事もあるので。

TVの話については、この頃は広い分野に関心が出ていた関係もあって「タモリ俱楽部」を視聴するようになっていた。週に1度、主に世間的には決してメジャーとは言えない細かいジャンルの専門家・好事家を招いて見識を深める特集を行う番組である。
この番組の中でほぼ必ず行われるコーナーとして「空耳アワー」というものがある。これは、日本製でない楽曲の一部分を聴いて、日本語でどう聴こえるかを視聴者がハガキで投稿、それに合わせて番組が映像を作成するコーナーであった。私は投稿こそした事はないが、父親の趣味であった「ビージーズ」「Jackson Brown」や高校の時分より自ら聴いていた洋バンドの曲が頻繁に取り上げられ、元々の楽曲のイメージが壊されていく感覚を楽しんでいた。時折、チェアマンのタモリ氏が原曲の意味や背景についても触れる事があり、意外と知らない見識も得られるのがタメになった。

2014年の11月頃であろうか。自宅に1通の往復はがきが届いた。それは、東京都市大学付属高等学校第60期生の、同期会の案内はがきであった。
当時の呼称は「成人の祝い」。後に聞いたところによると、これまで還暦を祝う会は毎年行われていた一方で成人の同期会は当代で初めて行われたらしく、また成人を迎える代が単独で同窓会のイベントとして会を行うケースは今のところ唯一であるそうだ。
当時、幹事として動いていたのは高1時に同じクラスであったが文系を選択した関係で以降は別クラスとなっていた同期であった。この男とはとりたてて親交が深い訳ではないが、何か奇妙な縁がある故か都内を電車で移動していると結構な頻度で出くわしたりするのである。
会そのものは2時間ほどしか行われていなかったようだが、学年に240名が在籍していたうち半数以上(正確な人数は覚えていない。なお別の高校を受験する等で中退をした人物の姿も見られた)が参加していた事もあって非常に濃い時間を過ごす事ができた。印象的な出来事としては、先輩の率いる社会人バンドによる演奏と床にこぼした氷を踏んで砕いた件であろうか。
最も印象的であったのは、出席していたとある同級生が当時は成人の年齢を迎えていなかったのだが、法令を遵守してアルコールを一滴も摂取していなかった件であろう。在学中にクラスの担任であり同期会に同席していた先生をして「芸能人としての覚悟」を示した態度を見た私は「自分には到底できる事ではない」と芸能人にかかる重圧と責任について深い感慨を得たのである。

2年間の講義が全て終わり、2年後期分の成績が3月初めに開示されると、一つも不合格とはならずに無事に3年次への進級が決まったのだ。余談ではあるが、2年前期は講義科目が多く履修単位数が34に上っていたが、その時も不合格の単位が無かった際には非常に安堵したものである。2年間で一度も単位を落とすことなく、累計の取得単位数は103に及んでいた。
問題点としては、フル単ではありながら「可」に該当するCの評定も多く、俗に言う「GPA」が今一つ高くない状況であった。後に分かる事であるが、3年前期までの同学年での順位は42位であったそうである。もう一つは、学部で共通の数学系科目と学科の専門科目を多く取得していた一方で大学共通となる教養科目である「青スタ」が殆ど取れておらず、その中で特に主要となる「教養コア」たる科目を4つのうち3つ取ったのみであり、それらを細分化した選択科目を全く履修できなかったのである。
この事を踏まえ、3年時は半期ごとに3科目ずつは青スタの科目を履修していき、学科の専門科目は少し抑えていく方針となった。
 

生誕10000日を迎えました。その9

当時の関東の落語サークル周辺の界隈では、所属の大学やサークルの垣根を越えて現役学生同士で親交が深まり、独自に寄席を開催するのがイベントの一つであった。とりわけ特筆性の高い出来事としては、私の3年先輩の方が自身の出身大学の和室で毎月1度くらいのペース(あくまで体感ではあるが)で寄席を主宰しており、中でもクリスマスイブの当日午前中に開催を決定して14時頃には演者が7名ほど集まって何食わぬ顔で寄席を開催した1件は10年近く経った今でも現役生に伝説として語られていると聞いている。
先に述べた「2人会」というものに、私が主催の片割れとして声がかかっていたのは、3月の頃であったと記憶している。コンセプトは、大学の垣根を越えて同期の親睦を深めるのが目的であり、色物(漫才)の例外を除けば各大学から1名ずつ勧誘をしていたそうである。そして交通の便の良い立地であった青山キャンパスが開催地として白羽の矢が立つと共に演者として私が選ばれたのである。
寄席の名前は「俺達寄席」。なお私自身は共同主催であった自覚は実際のところ殆どなく、また後にシリーズとして開催される事になるなどとは露ほどにも思っていなかった。
日程調整やそれに伴う出演辞退などの問題もあったが、私の出番についての件がかなり大きな問題であったかもしれない。最初に話を持ち掛けられた際は、主催の2人で漫才を行おうと提案されていたのだが、如何せん漫才についてはノウハウもまるでなかった(この辺はサークルの色の違いに起因する側面もあるが)事で内容の変更をさせてしまったのである。私は落語をやる事になったが、どちらにせよ下手ではあり。良くも悪くも濃いキャラクターとして当時の関東学生落語の方々で名前が知れ渡る結果となった、、そうである。
個人的には課題が多く残ったものの、元の目標であった「同期の親睦を深める」といった点では、寄席の後の打ち上げも含めて結果的に大成功となり、10年近くが経過した今となっても人生でも屈指の良き思い出である。

2年生の5月に行われた俺達寄席の余韻が冷めない6月半ば頃、私は平日には相も変わらず実験のレポートに追われて営業時間いっぱいまで図書室に入り浸る生活を送っていた。
ある日、営業時間が過ぎた図書室を追い出されて大学の最寄り駅となる淵野辺駅へ歩いていた時であった。道中、黒塗りで細長い、いかにも高級そうな車の中から声をかけられた。
車の窓を開けて現れたのは、いかにも痩せぎすの壮年男性であった。彼の話によると「腕時計の押し売り?のノルマを達成できずに在庫を抱えてしまっており、このまま持ち帰ると会社から処分が下る。ここで出会ったのも何かの縁、1つで良いから内密に持ち帰って欲しい」との事であった。わざわざ時計のカタログ(後の展開を考えると偽造の可能性もある)を見せながら、本来は100万円ほどの価格で取引している旨を伝えながら、半ば押し付けてきたのである。
ここで男の要求は終わらず、「この後仕事の接待があり、銀座でネーチャンと呑む。時計の対価と言っては何だが口座から下ろしてでもくれないか」との事であった。『淵野辺から銀座への移動時間を考えると最低でも到着は23時以降であり接待の時間にしては遅すぎる』等、冷静に考えると不自然な点が多い状況ではあったのだが、当時の私は焦らされていた事も手伝って判断のできる状態ではなく、そのまま手持ちであった7,000円(口座からは下ろさなかった)を渡してしまった後、男と別れたのである。
電車の中で冷静になった私は、定期圏内の途中の駅で改札を出て近くの交番に駆け寄って一連の出来事を話した。交番に居た警官2名によると、私が疑念を抱いた通り時計は「明らかにブランドの高級品ではない」そうであった。また警察の立場として「経緯はともあれ現物として腕時計が残されている以上、詐欺としての立件は難しい」「本件は社会勉強の受講料と思って諦めた方が良い」との事であった。
当時の私はかなり悔しさが募っていたのだが、後に腕時計に書かれていた名前(ブランド名?)から調べてみると、件の腕時計の実際の相場価格はおよそ2,500円であり、被害額としてはおよそ4,500円と、大学生の遭う詐欺の被害額としては決して高額とは言えない価格である。落語をやる上で、冒頭に自己紹介がてら身の上話を行う「マクラ」として鉄板エピソードとなるにはそう時間を要さなかったのは言うまでもない。後に俺達寄席を共催した落語サークルの同期に注意喚起の目的で長々とメールに文章として書き下ろしたのは、また別の話。

先に述べている通り、実験科目の単位を取得するためにはレポートを作成する必要があり、これには毎週4~5時間程度が費やされる。大学生活に慣れてくると、レポートの作成に取り組むタイミングや場所に関してある程度は決まった「ルーティン」のようなものが自然と形成されてくるのである。
まず1年次に課されていた実験科目は理工学部全体で共通であり、中でも化学科の所掌である科目のレポートは1部の構成が手書きでA4の用紙に20枚前後のものであった。これが2年次になると、学科の科目になる事に伴って作成方法も変わり、ワープロソフトを用いて電子データによる作成が認められるようになるのである(というより、実験中にグラフ等を作成する関係もあるため実質的にPC必須)。このため、レポート作成に求められる環境が異なるのである。化学のレポートには知識が必要となるため紙媒体の文献を取り寄せるのが必須であったのに対して、電気工学のレポートは基本的に一部の原理を除けば演算や表・グラフの作成がメインとなるため、データを保存したUSBをPCルームに持参すればレポートは作成できるのである。
そのような事情の元、2年次以降は平日に淵野辺、土曜に渋谷にある青山キャンパスに赴きレポートの作成をして午後に部活動という活動をする週が大半を占めていた。稀に残件があって日曜日にもPCルームに赴くケースがあったりもしたが。
そして、いざPCルームに居る時でも単純にレポートだけに取り組んでいた訳でもなかった。大学のPCルームうち語学関連の講義に用いるために良質なヘッドセットが常備されている部屋も存在しており(感染症対策の求められる現在においては知る所には無いが、当時はそのような教室はさほど多くなかったと記憶している)、手ではレポートを作成しつつも耳ではYoutubeで楽曲を視聴していたのである。この頃はYoutubeの中で規制がさほど厳しくなかったのか、公式のチャンネルが提供しているMVだけではなく許可を得ていないと思しき動画も散見されていた。
主に聴いていたのは、高校時代に軽音楽の仲間内で演奏が流行っていた「オフスプリング」「9mm Parablem Vallet」のような曲と、00年代のポップスが中心であった。かつて通っていた学習塾のロビーで、リラクゼーション用途を想定したオルゴールVer. とピアノアレンジVer. のCDがローテーションで流されており、これを契機に「Mr. Children」「コブクロ」「平井堅」「SMAP」「福山雅治」「いきものがかり」等のアーティストに関心があった。
中でも思い出に残っているのは、塾でもオルゴールVer. をよく聴いていた「365日/Mr. Children」であり、初めて視聴した時は楽曲の素晴らしさに聞き惚れ、気付いたら(レポートを作成中にも関わらず)感涙してしまっていたのである。この経験が元で音楽への愛に目覚め、後の人生に大きく影響を与える事となる。

生誕10000日を迎えました。その8

落語研究会の活動の一環としては、学生のアマチュア落語家による大会が開催されているのである。参加の条件として「非プロ」「現役の学生」である以外は課されない、いわゆる「全国大会」は夏に「てんしき杯」、冬に「策伝大賞」がそれぞれ行われていた。落語研究会としては、これらの大会で優秀な成績を修めることを目標に自身の落語を極めていく趣きが強かったのである。それぞれ予選にエントリー可能な人数は毎年240名程度であるのに対し、決勝ラウンドに進出できるのは毎回10名ほどになるので「大会で決勝進出」が一つのステータスの基準として挙げられる事が多く、卒業後にプロへ転向する場合や就職に際して履歴書に記載するにも相応しい栄誉と言えるのである。
当時の青学落研は、策伝大賞において2年連続で決勝進出者を輩出するなど名門と目されていた。その機運もあり、初挑戦となる1年生も含む部員の大半がノリノリでエントリーを行った。お世辞にも落語が評価されているとは言い難い私もその一人である。
予選へのエントリーにあたり書類(とビデオ)による選考があるのだが、私の参戦した回の一つ前までは半ば形骸化しており落選者が10名も居ないとされていた。選考結果は審査の終わった順に郵送にて通知されるのだが、サークル単位でのエントリー人数が多かった大学を中心に落選の通知が相次いでいた。私はかなり遅れての通知であったゆえ評判を聞いていただけに全く疑問なく落選する事になった。
それでも先輩の勧めもあり、時々顔を見ていた他大学の同期との交流も含めて策伝の開催される岐阜は長良川へ十数名で赴いた。
策伝の予選は土曜日にほぼ1日かけて会場を4つに分けて行われ、その夜に決勝進出者が発表される。翌日の日曜日に決勝戦がホールにて行われて夕方に優勝者(及び2位と3位)が決まるのが大会のルールであった。
私は予選の日を、青学の先輩や多大の同期を中心に観覧をして回った。とりわけ、この年のてんしき杯で準優勝となった4年生の先輩は本命の1人とされており会場も超満員になっていたのが印象的であった。
もう一つは、同期として一人だけ書類選考を通過した男が居たが、予選での出番が会場のトリ(=最後の演者)であったのである。落語はやや拙いながらも至って綺麗に演じていたのだが、途中の扉を叩く所作で効果音を出すために扇子の根元で床を叩く際に、誤って扇子を握り損ねて無音で扉を叩いたのが一番のウケとなっていた件が印象に残っている。
結果としては、青学からは決勝進出者はおらず、発表の会場で多少の交流を経てホテルに入るのだが、ここでも只では眠らないのが学生である。
前の年に決勝に進出しており、同年に決勝進出した青学の先輩と6月頃に2人会(落語の寄席の一種。有志n名が中心となって開く寄席を「n人会」と呼ぶ)を開いた人物がいた。この方が学生落語界隈では著名な「ボードゲーム」の愛好家であり、先の2人会の打ち上げでも合間に行ったボードゲームに私も参加させて頂いた。私自身も後年にボードゲームを趣味の一つとするのだが、この方の影響が強かった事は疑いの余地がない。ともあれ、この夜もA.M. 3時頃までボードゲームで遊んでいたのである。
翌日、午前中は岐阜の付近を青学の部員一同で散策をして午後は決勝を観覧した。大会が無事に終わると、参加者一同が合同(大まかには東西で別れて開催だったと記憶している)の打ち上げを行うのが慣例であったのだが、ここでまさかの事態が発覚する。
私の携帯が行方不明となっていたのである。
打ち上げの終わり際に、先輩により参加者へアナウンスがなされた。すると、キャンパスが近く親交の深かった桜美林大学の同期が各種トラブルの対応に慣れており、発見まで携帯への不正アクセス防止のために携帯の会社への通知等を手配してくれた。心底焦ってはいたが、それでもある程度の心の平穏が保たれたのは彼の存在が大きかったのは間違いない。先輩方も、初対面であった人さえも慰めをして頂けた事で有難かったのと同時に、ある種の悪名を広げる結果となった情けない一件でもあった。因みに携帯電話は、決勝の会場で座った座席の下に置き去りになっていたのを翌日に回収し、事の経緯は全てSNSによる周知される処となった。

そのような日々を過ごし、勉強の方では一部の科目に苦戦しつつも気づいてみたら1年はすぐに過ぎていた。とりわけ時間を多大に割く必要に迫られたのは、実験科目のレポート課題であろう。
高校までも実験の授業があれば翌週までに振り返りのレポートを提出する必要はあったのだが、大まかな項目を除けば特に決まった形式などもなく、基本的には「出せばよし」のようなものであった。(その上でも筆者は3回のうち1回くらいの頻度で未提出だったりもするのだが、、)
これが大学になってからは勝手が大きく変わるのである。まず提出するレポートに使用する用紙のサイズにも指定があり、高校の頃に使用していたものが使えなくなったのである。一応用紙は大学の購買にて販売しているが、当時の私は「学校の課題に必要な道具は知識と筆記用具以外は提供される」という感覚があり、課題へ向けて物品を調達する(ために金銭を授受する)という感性がなかったのである。この辺りの風習に慣れるにも多少ながら時間は要したのである。また実験の内容が高校や並行して講義で学習している内容から理論が導けるような原理ではなかった関係で、原理について記述するにも複数の参考文献を要する等の理由で、大学の図書館で毎週2時間は最低でも過ごしていたりする。それでも学部で共通の科目ではあるので全体でも週のうち4~5時間程度には収まっていたのだが。
話を元に戻すが、1年時における私の成績は、全ての科目で合格を修めた。世に言う「フル単」である。講義科目ではギリギリ及第点(評価C)のものも少なからず見受けられたが、最終的な成績としてはGPA(青山学院大学で実装されている制度。理論上の値は0以上4以下だが、4を獲得するには履修する全部の科目で評価点90点以上が必要となるため現実には中々厳しい)2.53とまずまずの成績となった。後に聞いたところによると、学年の数値は2.4程度であり順位としても平均より少し上であったらしい。中高の頃は学年最下位に始まり一度も半分より上の順位になれなかった私としては色々考えさせられる。
ともあれ、不安要素も多かったものの結果としては何ら問題なく2年生に進級する事ができたのである。
個人の成績を表示するポータルサイトでは年度末の発表を踏まえて「〇年生に進級できましたので、これをご連絡致します。」のような文言が最後に1行で添えられていたりするが、理工学部は選択必修等の科目が不足していても自動的に3年生まで学年は上がる判定となるようなので参考にはあまりならなかったりする。

学生生活が2年目になると、当然ではあるが後輩ができる事になる。それに伴い、部活動においては、自らが勧誘を行う側に回る事になる。
私は大学全体でメインとなるキャンパスと拠点が離れていた事や当時の現役学生としては珍しくスマホユーザでなかった(コミュニケーションツールとしてLINEが十二分に定着する前後の過渡期の頃である)等の理由もあり勧誘活動を担当してはおらず、補助的に事務系の作業を肩代わりする程度であった。
落語研究会としては、部に興味のある新入生と懇談会を行う事があったが、会場へ向かうまでの集合場所で「ペットボトルの方ですよね?」と声をかけられる。この人物は高校時代の1つ後輩であり、捨てられたペットボトルのキャップを外して分別する私の姿を見かけて顔を覚えていたのである。…「ペットボトルの方」とは?? などと考えて思考がおいつかなかった事が今も鮮明に思い出せる。彼は高校時代には学校行事にも積極的に取り組むタイプで学年でも中心人物といえる男であった。
勧誘を目的としたイベントの中でも印象に残っているのは、複数の大学に籍を置くメタル系バンドサークルが合同で開催した「HELL YEAH FES」(通称「ヘルフェス」)である。各サークルから一組ずつ、計20近くにも及ぶバンドが集結して丸1日演奏を行うもので新入生であれば無料で入場できるライブイベントであった。今なお多くのバンドが愛してやまない、渋谷は宇田川町のライブハウス「asia」にて、それは執り行われた。
高校の頃は欧米のバンドが好きな同級生が多く、柏苑祭でも8人くらいで列を成してヘドバンを行う事がある程であった。そんな同級生達の強い影響でライブハウスに赴くことが何度かあり、モッシュやツーステはそれなりに心得があった。
少し話がそれたが、この日に起こった事に話を戻そう。私はこの時点では演奏のサークルに所属しておらず、新入生としてではないものの実質的には部外者としての参戦であった。ところが、ライブハウスに入って程なくして高校時代の1年後輩の男の姿が見えた。彼は高校時代より、その独特な佇まいや行動で学内でも絶大な存在感を誇っていた。このライブで出会った先輩との2ショットがSNSに投稿されると、その先輩自身の拡散力も手伝ってか1日のうちに4桁にも及ぶ閲覧数に至ったりもした。また私は彼に目撃されたことで、後に落語研究会の活動で先の後輩経由で『あのキレの良いのっぽは誰だ!?』との評判を耳にする事となった。
そしてもう一人、高校時代に同級生であった男の姿もあった。話によると、1年遅れる形ながらも同じ青山学院大学に入学して、浪人の際に通っていた予備校で趣味のあった友人と2人で本イベントに参加したという。彼らともまた、在学中に時折ながら趣味の話に講じる仲になっていくのである。
かくして、この日の経験を基に本格的に音楽への熱が焚き付けられた私は、新たに趣味の種類が増えて学生生活がより豊かになっていくのである。
当時の青学には「メタルサークル」たる同好会が1つのみ存在しており、このイベントを経て多くの入会者が居た。私は主にキャンパスの都合により入会こそやや有耶無耶になった感が否めないが、所属者との関係は悪くなく、時折ライブに呼ばれる事もあった。

落語の方では、大学2年生になる直前にある話を持ち掛けられていた。それは、各大学の落語サークルの同期を集めた有志の寄席の合同主催者としての勧誘。依頼主は、策伝での携帯紛失事件で諸々の手続きを手配してくれた同期であった。
 

生誕10000日を迎えました。その7

ひとまず、大学生活が始まった時点での人間関係を振り返っておこうと考える。
まず、高校から青山学院大学の理工学部に現役生として進学をしたのが私自身を含めて6名存在していた。このうち2名は大学からの指定校推薦による進学である。
(話が前後してしまうが、高校の同期は学校の「進学校」へ向けた前衛的とも言える指導の賜物と言うべきか、法政大学からの推薦については志願者不在につき辞退となった。要求される高校での成績がやや高めに設定されていた事も一因かもしれないが)
当時の東京都市大学付属高校の卒業アルバムには、卒業時に任意の人物に寄せ書きのようにメッセージを貰えるページがあるのだが、既に青学の指定校推薦を貰っていた同期が「大学に入ってもよろしくな!」というメッセージをしたためていた。これ自体は卒業式の日に起こっているが、私が青学からの補欠合格連絡を受けたのはこれより後になるので、母親は「予知能力の持ち主?」などと驚いていたりする。大学に入って百人一首のサークルに入るきっかけとなったその人でもあり、やはり彼は何かを持っているような予感がする。現在でも連絡を取っている数少ない親友の一人である。
もう一人の推薦組は、硬式野球でのエースであった人物である(余談だが、高3時に都市大学付属高は甲子園の予選会で3回戦に進出した。ここで本選進出の本命の一角である帝京高校に0-18で敗れたものの当時の最高成績を更新している)。高校生活の後半で同じクラスで席も近かったので、既にある程度は打ち解けていた関係であった。
一般受験を経て青学へ進学したうちの一人は、学科まで自分と同じ電気・電子工学科になった。また別の一人は物理・数理学科に行ったのだが、数理系の科目に秀でている関係で頻繁にノートを借りたり定理を教えてもらったりする事になる。

先に述べた「数学リメディアル」において、たまたま近くの席に座っていた(当時の私は視力の矯正が行われていなかった事もあり、特に指定が無ければ前列に着座していた)2人と連絡先の交換を行ったりもした。

大学1年次の講義は大別すると学科の専門科目(私は電気系)・学部で共通の科目(数理系や実技演習)・外国語関連(英語、第二外国語)・大学の定めた教養科目(大項目4つあり、卒業には各1つずつ必須。受講に抽選を要する)の4つに大別されるが、学科科目は同じ学科の同期と、数理系科目はクラス分けの関係で推薦組2名と同じコマであった。また第二外国語の選択とTOEICの成績が「硬式野球のエース」と同じであったり抽選に当たった教養科目もたまたま同じ教室でノートを借りる彼と受講したり。。と、偶然が重なった結果として、1年時に履修した講義の全てで高校からの同期が一緒に受講している事態となった。
ちなみに、電気科の特性はというと、「必修科目が多い」の一言に尽きるだろう。当時の理工学部での年間履修単位数の上限52(教員免許の獲得を目指す「教職課程」を申請した場合は+8。これは大学全体で共通)に対して39単位が必修で埋められており、数理系の演習科目と物理学を各前期と後期・2つ教養科目を入れた時点で実質「フル単」の状態であった(厳密には51単位だが)。
理工学部の中では、これとよく対比になるのは化学・生命科学科であろう。こちらでは選択必修の科目が非常に多いのだが、ある程度の広さを持つ分野ごとに必要な単位数が決まっていて(シラバス上では「〇の10単位中8単位必須」「▽の8単位中6単位必須」のような記載がされていた)、事実上は必修のような扱いの科目も非常に多かったようである。それでも履修登録では科目を入力する必要があるのだが。

ところで、私が落語研究会(以下、原則『落研』と記す)に招かれた「本当の理由」についてだが、これには一人の人物が大きく関わっていた事が明らかとなった。
当時、落研に所属していた「ゴリさん」という先輩がいたのだが、この人がそれは大層「狂人」と関わるのが好きな人間であった。この先輩は4年生であったのだが、後に聞いたところによると留年をして大学の在籍は5年目になるとの事であった。この方を含む当時落研に所属していた部員の方が狂人を愛しつつ真人間へと矯正する機関として「落語研究会」の方針を定めていたのである。
そして、私自身が落研の一員として学生生活を全うする事を誓ったのもゴリさんの存在が大きいのである。
私は前述の通り在学中には多数のサークルに所属をしていたのだが、その全てが上手くいった訳ではないのである。別のサークルの集まりで部員との関係が悪くなった後に落研の部室へ赴いた事があったのだが、その時は部室にゴリさんが一人で(記憶が正しければ)漫画を読んでいらしていた。私はサークルでの出来事を話した訳ではないのだが、何かを悟ってか悟らずしてか、私の面倒な絡みにも全く嫌な顔をせずに応じて、ただ話を聞きつつも大学生活や趣味の話をしていただけたのである。時間にしては20分程度だったと記憶しているが、この事によって当時の私は心が救われたのである。この出来事を通じて、私は「誰かの心を救える」存在になる事について考えるようになり、後の生き様に大きく影響を与える事になる。また人間関係の嗜好も、法とモラルに触れない程度の狂気を好んでいくようになっていった。

この頃のデジタルゲームは、世間的な流行から見ればやや低迷期に入っていた、のかは不明だが、ニンテンドーDSの一通りのソフトを遊んだ後は携帯電話からブラウザサイトに接続する形態をとるゲームが流行した。端を発するのは恐らくdocomoの「iモード」だが、広く知られるのは「モバゲー」だろうか。
私の家では専ら「GREE」のゲームが流行っていた。母親が「ハコニワ」を始めていた事がきっかけで、私も「釣りスタ」「ドリランド」をプレイしていた。
ドリランドは用意された幾つかの地層?で化石を発掘するゲーム、釣りスタは用意された幾つかの釣り堀で魚を釣るゲームであり、どちらも凡その最終目的は図鑑を埋める事であった。この頃になると、既にインターネットへのアクセス環境が一般家庭にもおよそ整備されるようになった関係もあって攻略情報が出回っている状態であった(そもそもゲームのサイトから攻略情報の掲示板へのリンクが設けられていた。俗に言う「公式」である)。そんな訳で、攻略情報をある程度は集めた上で、ゲームでは金策をして目的の魚や化石へ向けた装備を整えて、、というルーティンを時間の許す限り行っていた。非公式のサイトで編み出されたバグ技に頼ったりブラウザの有効期限が切れてアイテムがロストしたのも一つの思い出となっている。

高校の頃には泊まりのイベントには必ず教員が引率していたが、大学になると学生のみでサークルの合宿が行えるようになった。
私の初めての学生のみで行う泊まりのイベントは、かるた愛好会の夏合宿であった。当時は在籍者の殆どが1年生であり、参加者は11名の同期のみであった。当時は初めてのイベントとあって、練習試合と食事以外はスケジュールが殆ど決まっていなかったのである。大学生故の体力もあり、夜にはなかなか眠らなかった事を思い出す。ここで編み出された遊びとしては、創設者の兼任していたサークルの呑み会でのゲーム「パニパニゲーム」(リズムに合わせて、指名された人が振り付けに従い次の指名をする。両隣の人は別の振り付けを行う必要があり、振りを間違えたプレイヤーがペナルティ)を改良した「ほうれんそうゲーム」(両隣の人が「にんじん」と言ってグータッチの振り付け、指名された人から遠いプレイヤーは「ほうれんそう」と言いつつ両手を広げて床を叩く)であった。入浴の後にこのゲームを行ったのだが、事情を知らない部外者から見ると宗教にしか見えないと専らの噂であった。既に床に伏している合宿の参加者の部屋の周りで「ほうれんそう」を連呼しながら壁を叩くシーンはとても面白かった(眠っていた本人は傍迷惑だろうが)記憶が鮮明に残っている。
 

生誕10000日を迎えました。その6

前述した通り、高校3年の3学期は授業が行われない。校舎へ赴くのは専ら受験の経過報告と共に学んだ友との最期の交流のためという意味合いが強かったのだが、私の戦況があまり芳しくない様子であったゆえ先生方にもかなり心配されていた。受験戦略としては、あくまでも前向きに切り替えを行うように励まされたりもしていた。元々、学年全体に「外部の大学を受験する生徒はMARCH以上には全員が現役で合格できる」くらいの空気感が蔓延していたが、実際の受験を通じて現実を思い知らされた同級生もそれなりに多かったようにも感じられた。
受験とは関係のない戯言ではあるが、卒業式を間近に控えた頃に言われた印象的な同級生の発言は、大きく2つある。
一つは、ものつくり大学のオープンキャンパスへ赴いた別の同級生に言われた「大学名が彫られた石碑の周りは何もなかった、草原がただ広がっていた」というもの。私は思わず「もの作れてないじゃねーか」と口走った記憶が今も鮮明に残っている。
もう一つは、まず前提として、私は生来かなり強めのくせ毛の持ち主であるのだが、この件について同級生が語った「大髙が卒業式にストレートパーマをかけて来たら、、泣くに泣けなくなるわ!」という一言である。それほど、私の髪質は良くも悪くも印象的であったのだろう。
首の皮一枚を繋いだ形で手にした青山学院大学の合格。これについても早々に高校へ赴いて通達を行ったのだが、6年間を共にした学年主任の先生と熱い抱擁を交わしたのはとても印象的であった。他の担任であった先生方も口々に祝福の言葉を多くいただいた。とても暖かい学校で本当に良かったと、残り僅かな生徒生活にして考えさせられた。
卒業にあたって学校で行ったイベントは卒業式だけではなく、懇談会があった。新宿のハイアットリージェンシーにて、同期全員が円卓を囲んで、生徒1名につき保護者1名ずつ後ろの円卓で様子を見るイベントであった。入室時にお店の皆様が「いらっしゃいませ」と発声してお辞儀を少しずれて行うのが心に残っていたりする。基本的には食事をして歓談に勤しむのだが、途中でテーブル毎に簡潔なコメントを求められた。この時に印象的なシーンは、最後にクラスメイトとなった友人が卒業にあたっての抱負を語ったのだが、その内容が下品であったため、その友人の母親がテーブルにわざわざ近寄って物理的に注意をしていた(頭をどついていた)シーンであった。他にも、自分たちのテーブルでは『歓談』をしているのだが、隣のテーブルでは何やらコントのようなノリが始まった時に同卓していた友人の発した「こっち(の卓は)喋ってる、あっち(の卓は)騒いでる。(だから迷惑ではないし注意はされないだろう)」という台詞は時折思い出しては笑ってしまう。

2013年4月1日。私は渋谷の青山にある、青山学院大学の門をくぐる事になった。
家族が全員で校門の前で写真を撮ろうとしたのではあるが、やはり人気の学校ではある故に写真を撮るにも列に並ぶ必要があった。この日は正装をした記憶があるが、緊張して詳細なエピソードが記憶に残っていない。

どちらかと言えば、入学直前の日程となる3月下旬に開催されていた「数学リメディアル」というプログラムの方が印象的であった。内容は、大学の数学への橋渡しとなる高校までの数学をおさらいするものであったが、質問に対応するという形で先輩方と交流をする機会が設けられている形となっており、大学入学後のキャンパスライフについてのイメージを掴むよいきっかけとなっていた。また先輩方による部活動の紹介の時間もあり、個人的には海外渡航サークルに所属していた先輩の名字が特徴的であったのが印象に残っている。

ところで、青山学院大学の本拠地は青山であり、実際に大半の学部は青山のキャンパスで講義を開講しているのだが、私が所属した理工学部は神奈川の相模原市に所在しており、講義の大半はこちらで受講するのである。
個人的には、実家から渋谷へは電車で移動するのに20分足らずとなるので、実際に通学をする前はかなり楽に通学ができる期待があったのだが、実際には入学試験の受験と入学式、卒業式以外では公式の行事で出入りをしない結果となった。相模原のキャンパスの方が新しく綺麗な建物ではあったが、少し残念である。

4月2日には、入学にあたっての健康診断と、英語のクラス分けを目的としたTOEICの受験があった。
高校時代は学校が精力的に取り組んでいた事もあって英検は準2級まで取得しており、試験には「場慣れ」していた自負があったのだが、TOEICとあっては同じ英語の試験でも求められる力や形式が大きく異なっており、非常に困惑したのを覚えている。何より前日の事もあって体調が万全でなく、先に行われたListeningパートはすんでのところで切り抜けたものの、Readingパートに移行して10分ほどで睡魔に負けてしまったのである。試験室での「試験時間終了10分前」のアナウンスに起こされる体たらくを晒したのであった。

4月3日は、もうすぐ始まる講義へ向けて参考書の購入やキャンパス内の建物の配置等についての説明を受ける合間に、サークル活動への勧誘を受ける予定であった。
この時、サークルの勧誘スペースでは一つの教室に長机が4つほど置かれて1つの長机に2つの長机という形式で行われていた。青学ではのべ3桁にも及ぶサークルが存在しており、この日もたくさんのサークルが新入生との出会いを求めて勧誘に勤しんでいた。
ある教室に入ると、初めに目についたのは、奥に笑点を思わせるような6名ほどの人数のカラフルな着物の皆様。その手前には、先の数学リメディアルにてお世話になった、珍しい名字の方。この先輩も私の事は覚えてくださっており、それなりに会話が弾んでいた。
そして、この様子を見ていた着物の集団、、落語研究会の先輩方は、私の話しぶりに未来を見出したようで、私にロック・オンをしたようであった。落語をやる部活であるはずなのに、ある一人は「落語をやらなくていい! 即戦力になれるから! とりあえず入って!」という意味の通っていないようにも聞こえる言葉で自分を引き入れようとしていた。
今後の予定等を連絡するためとして、一通りの連絡先と氏名を記入して一度、その場を後にして引き続き他のサークルを吟味していたのだが、ふと携帯電話の画面を見たら4件ほどの不在着信が届いていた。全て同じ番号。折り返しかけなおしてみると「落語のブースに戻れ」との指示があった。何かの謎解きに巻き込まれたような不安に駆られながら、また一通りの勧誘を受けて、ブースを離れた。その後、他の用事をこなしていたところで、先と同じ番号から再び鬼のような着信が入っていた、、。結果、落語研究会のブースには1日のうちに3回も赴いているのである。
結果、私は熱意に半ば押される形で落語研究会の部員となるのである。

他にも大小さまざまなオリエンテーションを経て、4月の中頃から一般の講義が始まることになった。とはいえ、講義も基本的に初回は科目全体の概要を説明するのだが。
この時期は何より学生生活に「慣れる」事が肝要とされる時期ではあるが、私はとりわけ調子を崩してしまいがちになる傾向があった。いや、言い訳がましくなるのは見苦しいが。講義を行った教室やら学生食堂のフロアやらに、教科書から当時持ち歩いていたリュックサックに至るまで様々な遺失物を生み出してしまったのである。その数は最初の4月の一カ月の間に、6つにも及ぶ。一週間の間に2つずつのペースであり、高校から一緒に青山学院へ進学した同期の友人にほとほと呆れられた事を覚えている。

相模原の落語研究会の部室には、決まった曜日に先輩が勉強がてら入室しており、私も水曜日に講義の終わりに訪れて雑談をするのが慣例となっていた。
とある5月の日であったか、高校から青山学院の理工学部、化学科に進学した先の同期が落語研究会の隣の部屋に入るところを見かけた。聞くところによると、同じ学科の同期が「競技百人一首」を嗜むサークルを立ち上げ、その初活動が行われるらしかった。そこで私は試しに活動を見学する事にした。結果、そのまま3時間ほど活動に参加させて頂き、あれよあれよの間に「かるた愛好会」の正規のサークルメンバーとなっていたのである。
後に聞いたところによると、「競技百人一首」を行うサークルは、俗にいうMARCHの学群にある大学では唯一、青山学院にだけ存在しない状態であったらしい。後に初代サークル長となる同期が高校から有段者であったのだが、入学するまでは知らなかったらしく、別のサークルに入っていた同期の名前を借りてサークルを設立したのが始まりであったという。

落語研究会と、かるた愛好会。私は大学生活を通じて多くのサークルに加入ないし活動へ関与する事になるのだが、この2つのサークルが現役生として過ごす4年間を通じて所属し、また以後の人生を大きく彩る事になる。
 
  • 1
  • 2