同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その6

前述した通り、高校3年の3学期は授業が行われない。校舎へ赴くのは専ら受験の経過報告と共に学んだ友との最期の交流のためという意味合いが強かったのだが、私の戦況があまり芳しくない様子であったゆえ先生方にもかなり心配されていた。受験戦略としては、あくまでも前向きに切り替えを行うように励まされたりもしていた。元々、学年全体に「外部の大学を受験する生徒はMARCH以上には全員が現役で合格できる」くらいの空気感が蔓延していたが、実際の受験を通じて現実を思い知らされた同級生もそれなりに多かったようにも感じられた。
受験とは関係のない戯言ではあるが、卒業式を間近に控えた頃に言われた印象的な同級生の発言は、大きく2つある。
一つは、ものつくり大学のオープンキャンパスへ赴いた別の同級生に言われた「大学名が彫られた石碑の周りは何もなかった、草原がただ広がっていた」というもの。私は思わず「もの作れてないじゃねーか」と口走った記憶が今も鮮明に残っている。
もう一つは、まず前提として、私は生来かなり強めのくせ毛の持ち主であるのだが、この件について同級生が語った「大髙が卒業式にストレートパーマをかけて来たら、、泣くに泣けなくなるわ!」という一言である。それほど、私の髪質は良くも悪くも印象的であったのだろう。
首の皮一枚を繋いだ形で手にした青山学院大学の合格。これについても早々に高校へ赴いて通達を行ったのだが、6年間を共にした学年主任の先生と熱い抱擁を交わしたのはとても印象的であった。他の担任であった先生方も口々に祝福の言葉を多くいただいた。とても暖かい学校で本当に良かったと、残り僅かな生徒生活にして考えさせられた。
卒業にあたって学校で行ったイベントは卒業式だけではなく、懇談会があった。新宿のハイアットリージェンシーにて、同期全員が円卓を囲んで、生徒1名につき保護者1名ずつ後ろの円卓で様子を見るイベントであった。入室時にお店の皆様が「いらっしゃいませ」と発声してお辞儀を少しずれて行うのが心に残っていたりする。基本的には食事をして歓談に勤しむのだが、途中でテーブル毎に簡潔なコメントを求められた。この時に印象的なシーンは、最後にクラスメイトとなった友人が卒業にあたっての抱負を語ったのだが、その内容が下品であったため、その友人の母親がテーブルにわざわざ近寄って物理的に注意をしていた(頭をどついていた)シーンであった。他にも、自分たちのテーブルでは『歓談』をしているのだが、隣のテーブルでは何やらコントのようなノリが始まった時に同卓していた友人の発した「こっち(の卓は)喋ってる、あっち(の卓は)騒いでる。(だから迷惑ではないし注意はされないだろう)」という台詞は時折思い出しては笑ってしまう。

2013年4月1日。私は渋谷の青山にある、青山学院大学の門をくぐる事になった。
家族が全員で校門の前で写真を撮ろうとしたのではあるが、やはり人気の学校ではある故に写真を撮るにも列に並ぶ必要があった。この日は正装をした記憶があるが、緊張して詳細なエピソードが記憶に残っていない。

どちらかと言えば、入学直前の日程となる3月下旬に開催されていた「数学リメディアル」というプログラムの方が印象的であった。内容は、大学の数学への橋渡しとなる高校までの数学をおさらいするものであったが、質問に対応するという形で先輩方と交流をする機会が設けられている形となっており、大学入学後のキャンパスライフについてのイメージを掴むよいきっかけとなっていた。また先輩方による部活動の紹介の時間もあり、個人的には海外渡航サークルに所属していた先輩の名字が特徴的であったのが印象に残っている。

ところで、青山学院大学の本拠地は青山であり、実際に大半の学部は青山のキャンパスで講義を開講しているのだが、私が所属した理工学部は神奈川の相模原市に所在しており、講義の大半はこちらで受講するのである。
個人的には、実家から渋谷へは電車で移動するのに20分足らずとなるので、実際に通学をする前はかなり楽に通学ができる期待があったのだが、実際には入学試験の受験と入学式、卒業式以外では公式の行事で出入りをしない結果となった。相模原のキャンパスの方が新しく綺麗な建物ではあったが、少し残念である。

4月2日には、入学にあたっての健康診断と、英語のクラス分けを目的としたTOEICの受験があった。
高校時代は学校が精力的に取り組んでいた事もあって英検は準2級まで取得しており、試験には「場慣れ」していた自負があったのだが、TOEICとあっては同じ英語の試験でも求められる力や形式が大きく異なっており、非常に困惑したのを覚えている。何より前日の事もあって体調が万全でなく、先に行われたListeningパートはすんでのところで切り抜けたものの、Readingパートに移行して10分ほどで睡魔に負けてしまったのである。試験室での「試験時間終了10分前」のアナウンスに起こされる体たらくを晒したのであった。

4月3日は、もうすぐ始まる講義へ向けて参考書の購入やキャンパス内の建物の配置等についての説明を受ける合間に、サークル活動への勧誘を受ける予定であった。
この時、サークルの勧誘スペースでは一つの教室に長机が4つほど置かれて1つの長机に2つの長机という形式で行われていた。青学ではのべ3桁にも及ぶサークルが存在しており、この日もたくさんのサークルが新入生との出会いを求めて勧誘に勤しんでいた。
ある教室に入ると、初めに目についたのは、奥に笑点を思わせるような6名ほどの人数のカラフルな着物の皆様。その手前には、先の数学リメディアルにてお世話になった、珍しい名字の方。この先輩も私の事は覚えてくださっており、それなりに会話が弾んでいた。
そして、この様子を見ていた着物の集団、、落語研究会の先輩方は、私の話しぶりに未来を見出したようで、私にロック・オンをしたようであった。落語をやる部活であるはずなのに、ある一人は「落語をやらなくていい! 即戦力になれるから! とりあえず入って!」という意味の通っていないようにも聞こえる言葉で自分を引き入れようとしていた。
今後の予定等を連絡するためとして、一通りの連絡先と氏名を記入して一度、その場を後にして引き続き他のサークルを吟味していたのだが、ふと携帯電話の画面を見たら4件ほどの不在着信が届いていた。全て同じ番号。折り返しかけなおしてみると「落語のブースに戻れ」との指示があった。何かの謎解きに巻き込まれたような不安に駆られながら、また一通りの勧誘を受けて、ブースを離れた。その後、他の用事をこなしていたところで、先と同じ番号から再び鬼のような着信が入っていた、、。結果、落語研究会のブースには1日のうちに3回も赴いているのである。
結果、私は熱意に半ば押される形で落語研究会の部員となるのである。

他にも大小さまざまなオリエンテーションを経て、4月の中頃から一般の講義が始まることになった。とはいえ、講義も基本的に初回は科目全体の概要を説明するのだが。
この時期は何より学生生活に「慣れる」事が肝要とされる時期ではあるが、私はとりわけ調子を崩してしまいがちになる傾向があった。いや、言い訳がましくなるのは見苦しいが。講義を行った教室やら学生食堂のフロアやらに、教科書から当時持ち歩いていたリュックサックに至るまで様々な遺失物を生み出してしまったのである。その数は最初の4月の一カ月の間に、6つにも及ぶ。一週間の間に2つずつのペースであり、高校から一緒に青山学院へ進学した同期の友人にほとほと呆れられた事を覚えている。

相模原の落語研究会の部室には、決まった曜日に先輩が勉強がてら入室しており、私も水曜日に講義の終わりに訪れて雑談をするのが慣例となっていた。
とある5月の日であったか、高校から青山学院の理工学部、化学科に進学した先の同期が落語研究会の隣の部屋に入るところを見かけた。聞くところによると、同じ学科の同期が「競技百人一首」を嗜むサークルを立ち上げ、その初活動が行われるらしかった。そこで私は試しに活動を見学する事にした。結果、そのまま3時間ほど活動に参加させて頂き、あれよあれよの間に「かるた愛好会」の正規のサークルメンバーとなっていたのである。
後に聞いたところによると、「競技百人一首」を行うサークルは、俗にいうMARCHの学群にある大学では唯一、青山学院にだけ存在しない状態であったらしい。後に初代サークル長となる同期が高校から有段者であったのだが、入学するまでは知らなかったらしく、別のサークルに入っていた同期の名前を借りてサークルを設立したのが始まりであったという。

落語研究会と、かるた愛好会。私は大学生活を通じて多くのサークルに加入ないし活動へ関与する事になるのだが、この2つのサークルが現役生として過ごす4年間を通じて所属し、また以後の人生を大きく彩る事になる。
 

生誕10000日を迎えました。その5

ところで、東京都市大学付属高校は大学受験にとてつもなく力を入れるようになっていた。高校1年生の頃から、入学の意欲を高める目的でオープンキャンパスへ行って参加レポートの提出を求められたり、夏休み期間に勉強合宿(参加は任意)が行われていたりもした。通常の授業でも公立では中学3年間で習う内容を2年間でほぼ習いきった上で中学3年以降は演習が多く取り込まれるようになり、高校2年あたりになると実際に過去に入学試験に用いられた問題が演習に用いられる事が日常であった。
私自身は学習合宿に高校2年時に参加をしており、八王子に30名ほどの生徒で5泊6日を過ごした事もあった。寝る前の話は志望大学について、、というわけでもなく、お互いの過去についてだったり、授業の内容(主に難度)についての話が多かった。あとは部屋の照明やら光源となり得るものを全て絶った状態で互いの身体をバスタオルで叩き合って「今の誰だよ!?」なんてじゃれ合ってみたり。なお全くの余談であるが、5泊6日という滞在期間は、10000日間のなかで自身や血縁の者の住居を離れた最長記録となっている。
高校の取り組みもあり、当時の私は精力的に大学のオープンキャンパスに訪れたのだが、文化祭に高校生の時分に参加したのは中央大学(後楽園のキャンパス)であった。そこで興味のあった「音楽サークル」の演奏を見学したのだが、フロアで男女関係なく体当たりでモッシュを仕掛けていた様子が当時男子校の生徒であった私にとっては非常に衝撃的であった。演者の側も女性ボーカルの方が激しく聴衆を煽ってパフォーマンスを行っており、フロアに転がったマイクを私が手早く拾って渡した記憶は今も色褪せていない。なお、学業面では研究室紹介の一環として展示されていたポスターセッションでの「今、氷が熱い!」というキャッチフレーズが印象的であった。
そのような事もあり、(あくまで何となくではあるが)中央大学の理工学部を志望するようになった事で勉強への意識はかなり高まったのである。以前に紹介した学年主任であり元々進路指導室の室長であった先生からは早慶や国公立のような上位の大学も検討するように勧められていたが、私自身の意志としては中央大学への入学を志していた。実際のところ経済的な側面を考慮した場合は国公立大学が優先されるのではあったと思われるが。

そのような日々を過ごし、高校3年生まではそれなりに勉学に励んでいたのだが、12月に受験した統一模試では衝撃的な出来事が起こった。
国語の教科の偏差値で25.1を記録したのである。数万人が受験する中で、下から数えて数百人程度の順位となってしまっていたと言えば分かりやすいであろうか。国語に苦手意識があったのは事実であり、高3時は私立受験コースのため文系科目の授業が無かった事も理由として挙げられるのだが、それでも非常に苦い思い出の一つである事は間違いなく、内心では半ば国公立大学の受験を諦めるきっかけであった。
当時、大学入試の中で行われていたのは「センター試験」。2日に分けて、1日目の土曜日に文系科目と最後に英語を、2日目に理系科目を受講する形であったと記憶している。
試験会場については、在籍高校の単位で複数の高校が同じ会場で受験を行うシステムとなっていたのだが、そのうち1校が東大へ毎年、数十名程度が進学するらしい高校であった。試験の休憩時間で「満点イケそーだわ」のような内容の会話が漏れ聞こえてくるのは少しプレッシャーとなっていたりもした。
また、試験の出来自体とは直接関係ない事ではあるが、1日目の試験を終えて帰宅する際には、誤って荷物を車両の中に置き去りにしてしまう事件も起こしてしまった。試験を終えた同級生が同じ駅から乗車するのだが、電車の扉が閉まりかけていたタイミングで改札をふざけて通過していた友人がおり、早く乗るように促そうとして列車を降りてしまったと同時に列車の扉が閉まってしまった。同乗していた同級生に預かってもらって即日、引き取る事ができた事でなんとか事なきを得たが、総じて試験の時期にはまるで余裕の無かった状態であったと回想される。
試験問題については、例年の傾向から考えると現代文の難易度が高く国語の点数が低い平均点となった。当時時点で歴代最低の平均点と言われていたが、翌年になってさらに更新されたと記憶している。他方で数学については、数1Aと数2Bが科目として用意されているのだが、数1Aが難化して平均点が100点中50点を下回り、数2Bがやや易しめとなった。これらの事を踏まえ、大学入試の全体的な戦略はおおよそ文系志望者が弱気、理系志望者が強気の志願をする傾向にあったらしい事を風の便りで知った。
そんな中、私自身はセンター試験の総得点は「565 / 900 点」(自己採点によるものであり、実際の結果は通知されない)。事前に想定していた得点は下回っているどころか、一つの基準と考えていた「東京工業大学の2次試験の受験資格」として設定された点数(通例では600点程度と言われていたが、実際の試験を踏まえて573点に引き下げられていたと記憶している)にも満たない結果となってしまった。当時の私は内心では自信をほぼ喪失してしまい、この時点で内心では浪人を覚悟していた。
学校や両親と相談して決めた大まかな受験の方針は「MARCH以上の大学に入学できなければ浪人」。センター試験の結果を用いずに個別の試験に赴いた私立大学は「東京理科大」「青山学院」「上智」「中央」「明治」「早稲田」の6校(およそ受験日程順。後半3つは日程が連続であった記憶あり)。志望校の選考基準は大学のブランドの他にも親から「実家から通える距離」である事を厳命されていた事が影響している。
私は理系を志望していたため数学と理科の受験をするのだが、問題の難易度は明治の数学が確実に満点を目指さないと絶望的とされるほど易しく、青山学院の数学も個人としては70点後半くらいの点数は確実に獲得できたとの手応えを感じるほどに易しく設定されていた記憶がある。他方で理科大や早稲田の数学は部分点を積極的に獲得するように立ち回る必要のある難しい内容であったが、当時の私にはそのような器用な芸当は出来なかった。中央大学のキャンパスへ向かう道中では、「理科大(の入試)で見覚えのある顔がいたわ~」という声が漏れ聞こえた事も鮮明に覚えている。私を指している発言であるかは不明だが。
結論から言えば、全ての試験に不合格の判定を頂戴した。
それでも、浪人を避けるためには私は止まる訳にはいかなかった。私立の個別試験の後に国公立の2次試験の日程が控えていたのだ。私は、前述のセンター試験の結果と通学の所要時間を中心に検討した結果として、2月下旬の前期日程に「東京農工大学」、3月中旬の後期日程に「電気通信大学」の受験をする事になった。
試験問題はというと、農工大での問題は特に取り立てて難しくも易しくもなく印象にはあまり残っていなかったが、受験を終えた後の手応えが良くなかった記憶がある。
前期日程の試験の合否は後期日程の前に通知されるのだが、結果は不合格となった。
電通大の問題も受験時の試験問題については思い出せる事は何もないのだが、前期日程の結果を踏まえた上で受験の要否が決められる影響が大きく、試験会場の教室の半分くらいが空席であった記憶がある。受験のシステム上、受験費は払っているはずではあるが。
また受験勉強の際に見つけた試験の過去問においては英語の物語文の内容が「余命の短い母親の見舞いのための有休を上司に断られた会社員が設備の欠陥を利用して上司を見殺しにする」という、あまりにも試験問題としては似つかわしくない短編サスペンスが印象的であった。後年にセンター試験等で見られる「人参に羽の生えた生物のイラスト」のような直接的なインパクトではないが、なかなか集中力を奪われる問題であろうかと考えた記憶がある。
後期日程の受験を終えて失意に暮れつつ帰宅をしたところ、母親にはあるものを見せられる。それは、青山学院大学の補欠合格の通知であった。中学受験の時といい、なかなかストレートには入学できないものである。形はどうあれ浪人を回避できた事になった当時の私はとても安堵したことは今も鮮明に思い出せる。
そして後期日程の不合格通知が届き、最終的な進路は青山学院大学に確定する事になった。
ところで応募した学科についてだが、漠然とプログラミングを生業としたいという感覚があった関係で、殆どの大学を「情報科学科」「情報工学科」のような名称の学科を志望していた。その例外は青山学院大学の電気電子工学科と明治大学の応用数理学科の2つ(通信工学との複合などもあるが、ここでは除外)であったが、後者の応用数理学科は当時に新設されて学生を初めて募集する年度、つまり1期生の募集であったため前向きな志願であったが、電気電子工学科は大学の募集要項を見た際に情報工学系の学科が見つけられず、分野の近そうな電気電子工学科へ願書を提出するというやや受動的な志願であった。この件が後にある事件を引き起こす事になるのだが、それはまた別のお話。

(なかがき)
今回、これまでの半生を振り返る腹積もりで筆を執っているのだが、当初は生誕10000日にちなんで総字数10000程度を想定していたのだが、自身の感情が動いた瞬間をできる限り文章として残そうとした結果、ここまでで15000字程度の量となってしまっている。
恐ろしい事に、ここが全体の「折り返し」である。この連載が終わるのは、一体いつになるのであろうか、、?
 

生誕10000日を迎えました。その4

高校一年生の終わり、3月14日からの4日間。予定では、世界大戦について学ぶ研修旅行として九州へ赴く、はずであったのだが、、、。
2011年3月9日。この日は、高1時の学年末試験の答案が返却される予定の日であった。当時の私は東急の電車を通学路として用いていたが、途中の乗り換え駅でホームの移動で階段を踏み外し、足首の辺りに激痛が残っていたものの処置は特にせずに登校、答案を受け取ってそのまま帰宅した。
2011年3月10日。収まらない足首の違和感。整形外科へ赴くと、診察結果は「靭帯損傷」。生来、不治の病を幾らか抱える身ではあるが、ここで新たに生涯癒える事のない傷を抱える事となってしまうのであった。
2011年3月11日。恐らくこの文章を読んでいる方には改めて説明をするまでもないとは考えているが、、14時頃に東日本大震災が発生した。当時の国内情勢は大幅に混乱に陥る事となり、本高校でも遅れて学年末試験を受けていた学年の生徒がそのまま自習していた等の理由で校舎に残っていたら図らずも帰宅難民となり、校舎の体育館で一夜を過ごしたような話を聞いた。(都市大付属高の校舎にはかなりの量の非常食が保管されているため、その点は問題なかったそうであるが)一方で当の私は、前日の診察での注意もあって自宅で安静にしており、SFCのゲームをプレイしている最中に地震が起こった形である。この事態を受けて、研修旅行は一度中止となってしまった。

高校2年時、私は柏苑祭のクラス委員となった。年に一度の学園祭であるが、委員の仕事は基本的には担当となった箇所の運営における実働部隊のようなものであり、各学年からおおよそ40名程度が集められて幾つかのブロックへ分けられて約4カ月にわたる準備と当日の運営へと臨むのである。私は第一志望を外装ブロックとしていたが、抽選の結果として「宴夜祭」の担当になった。宴夜祭とは、柏苑祭の展示が一通り終わりかけた頃にホールで行われる、要は学園祭の後夜祭にあたるものである。
私は元々、中学1年と2年の時は自身が担当となっていた出展でのシフトをこなしたらいち早く帰路についていたのだが、中学3年の際にふと思い立って宴夜祭を見学して、そのあまりのクオリティに驚いて以来、10年以上にわたり毎年欠かさずに観覧させて頂いている。ライブ形式のステージパフォーマンスなのだが、一夜限りの演舞へ向けて3カ月ほど前から練習を重ね、チームによっては出演を賭けて選抜を行うなども見受けられるなど一介の中高の学園祭としては極めて力の入ったイベントとしての側面が大きかった。オープニングの映像に始まって(本校は当時からCG等の技術が非常に高く、毎年とても見ごたえのある映像が観られる。担当は視聴覚委員だったと記憶している)、吹奏楽部のブラスバンドにより3~4曲の演奏があったのち、流行の楽曲のコピーダンスがめくるめく披露されていく。当時恒例であったのは「サッカー部によるEXILE」「海外のクラブミュージック」「ももクロ」「AKB48」等であった。なお私の在学中は前述したように現役のジャニーズが生徒として在籍していた関係か、ジャニーズ事務所の楽曲は披露されなかった(卒業後は嵐や関ジャニ∞・舞祭組等が披露されている)。また柏苑祭における「Mr. & Ms. コンテスト」の発表も行われていた。
高校2年生とあれば柏苑祭では集大成となる年、可能であれば演舞(バックストリートボーイズ)を行いたかったのだが、前述したオーディションに落選してしまった。一方で委員としての仕事は「上演中に天井にレーザーを当てる」係。聞こえが悪いかもしれないが、実はパフォーマンスを前の正面から間近で鑑賞しつつオーディエンスの熱狂を肌に感じられるいわば「特等席」のような役割であった。無論、パフォーマンスを引き立てつつ演者の視力を奪ってしまわないように調整が必要になる点ではやや難しいのであるが。DJ OZUMAとラグビー部がユニフォームのまま踊る「Gee/少女時代」、当時保健体育を担当していた女性の先生が同級生と一緒に踊ったAKB48が特に印象に残っている。

話が前後するようであるが(今に始まった事でもないが)、高2時の夏休み期間を用いて「震災の爪痕が色濃く残る」東北地方の現状をを体感しよう、との思いを胸に、父親と2人で宮城~岩手を跨ぐ2泊3日の旅行を行った。初日と最終日は慰安旅行とほぼ変わらないのだが、2日目に震災から復興できていないままの地域を闊歩した。商店街もシャッターが目立ち、墓地も墓石が倒れたまま放置されていたり、寺院の中にまで土砂が侵入していたりするなど普段の生活では想像し難い光景の連続であった。そのような状況下で印象的であったのは、なぜか理髪店だけはサインポールを回して営業している点であった。理由は不明だが、飲食店よりも理髪店の方が営業再開を早めていたのである。

この時期に私が精力的に取り組んでいた事の一つに、ニンテンドーDSの「おいでよどうぶつの森」オフライン通信機能を用いたオフライン交流会が挙げられる。
形式としては、2chに交流会専用のスレッドが存在しており、企画と相談を経て、渋谷や池袋等の繁華街を指定して散策をしつつ、アイテム付きの手紙を用意して「すれちがい通信」により交換をするものである。実際に会って話をするわけではない。
このイベント、中学生の頃は親のどちらかに連れていって貰っていたが、高校になると私が一人で出向く事が多くなっていった。とりわけ頻度の高いスポットは池袋のサンシャインシティと水道橋のラクーアであろう。印象的な出来事としては父親と2人で渋谷の109に向かった事もあったりした。場にあまり似つかわしくなかったのは言うまでもない。
このイベントに参加する事で、私はショッピングモールを筆頭にある程度の都内のホットスポットについて詳しくなり、また電車での移動についても抵抗が殆ど無くなった点が後の私自身の方針に大きく影響を与えているように思われる。

前述した通り、東日本大震災のため(当然だが、私が怪我をしたためではなく)研修旅行は中止となっており、当時の学年主任の先生によると私の学年ではそのまま行わない予定であったのだが、高校2年の冬休みに延期という形で敢行される事になった。
研修旅行は3泊4日のうち、初日と最終日は学年全体で現地の方の講話を聴講する一方で、2日目と3日目は予定を班ごとに決められる「自由行動」の時間が大半となっていた
班は生徒が自主的に編成可能であった。私は高校1年次に学年委員長に就任した関係もあり二つ返事で所属する班の班長に就任したが、俗に言う「鉄道ヲタク」のメンバーと資料館巡りをしたいメンバーで意見が合わず、旅程の協議が難航して調整に苦慮したのは一つの思い出となった。
最終的に確定した旅程は、高校1年時の3月に行われる場合の日程に合わせて作られたものであったのだが、延期になった事で曜日が変わっていた件を反映できていなかったのが大きな誤算であった。実際に旅程を練り直す気力もなく決行したのだが、目的地に含まれていた博物館が当該の曜日を定休日としていて入館できなかったのが苦い思い出である。
 

生誕10000日を迎えました。その3

中学3年生以降は、前年度の成績を参照した上で習熟度別にクラスが編成されることになるが、私は在学中の成績が下から数えた方が早い順位であったため上位のクラスに入ることは叶わなかった。
この習熟度別クラス分けと、外部からの干渉の少ない環境への慣れが相まって、正直なところ、下位側のクラスの授業態度は決して良いとは言えないものとなっていた(無論、下位クラス同士でもある程度の差はあったのだが)。当時の先生方には、この件についても当時の生徒一同を(勝手に)代表してここで謝意を示しておきたい。

中学3年時に思い出深いのは、本校のOBであった社会人の方を講師として招いて現代社会の過ごし方について講演を行う「キャリアスタディ」であろう。
講演にて話された内容は今となっては殆ど覚えていない(←ヲイ)のだが、自分のクラスにおいでくださったOBの方が少し寒めの駄洒落を好む方で「新聞に『乗った』」と言って床に敷いた新聞の上に乗る等の言い回しはよく覚えている。
まさか10年近く経過した後に自身が企画に深く携わるなどとは、当時はつゆも思っていない。因果とは不思議なものである。

そして、ごく一部の生徒を除けばそのままエスカレーター式で高等部へ進学となる中で、形式的に中学校の卒業式を執り行った。
ここで、事件は起こった。
この日は、私の記憶では午前中に高等部の卒業式を行った後に昼頃から中等部の卒業式を行う予定であったが、私が通学に使用していたバスが大幅に遅延していたのだ。結果として、私が校舎に到着する頃には卒業の式典が終わっており、各教室に戻って今後の連絡事項を確認する時間となっていたのが苦い思い出として残っている。

また、この頃に母親が掲示板「2ch」でのある書き込みを見て私に尋ねた。
「『菊池』って子、学年に居る?」
母の言うところに依ると、学校毎の話題を語るスレッドで「ジャニーズの菊池風磨が都市大の付属の中学に通っているらしいのですが、、」という旨の書き込みがあったようである。この時は特に気にも留めていなかったのだが、これ以降は母がジャニーズ全体の動向をそれとなく追うようになり、ジャニーズJr.(平たく言えば事務所における研修生のようなものだろうか)がメインで出演する「少年俱楽部」をほぼ毎回観るようになった。
後に学年も私自身と同じである事が分かり、また授業参観があった際に母が顔を見たことで確信を持ったようである。
私自身は風磨の属する友人グループには属していなかったのだが、定期試験の答案返却の日のような、早めの時間に解放される日に教室で6名くらい適当に遊ぶことはあった。特に印象に残っているのは、机の上で消しゴムを指で弾いて机から落とされたら脱落となるゲームを行って、最終的に勝ち残った私と風磨の一騎打ちの末、私が優勝した事だろうか。他にも腕相撲や名前のよく分からない遊び(指で相手に攻撃をする、攻撃されたら相手の指の本数を足す。指5本になったらアウト)をやった記憶がある。

塾にもいくつか思い出があった。私は中学受験のために通っていた塾で引き続き英語の進学コースのグループ授業を受講していた。小学校の頃と比べると授業態度が落ち着いていたが、クラスメイトが天然な人物が多く、受講中にテキストの端から鉛筆で徐々に塗り潰してしまう生徒や、2人組で説明の最中にボールペンで互いに刺し合って注意されている生徒なども居た。それでも、小学生の頃のように泣かされるようなトラブル等はなく、至って穏やかに勉強ができていたと感じている。
中学3年の3月、高校進学の祝賀会を行った。これは元々、小学生の頃に中学受験のコースの生徒が合格を祝う会を行った事が記憶にあり、高校への進学にあたり相応の人数が塾を去る事となるため、私が個人的に塾の先生方へ持ち掛けたのがきっかけである。実際の会では歓談に勤しみつつ、塾に置いてあった知育用のジェンガで遊ぶというものであった。私がわざと涼しい顔を装って瞬発的にジェンガを抜くというギャグで場を沸かせたのは良い思い出である。

そして、高校生になった。

高校一年生の時、何となく興味のあった「クラス委員長」に立候補をしたところ、他に希望者がおらずそのまま就任と相成った。
その数日後に行われた学年委員会において、とあるお調子者の同期に唆される形で「学年委員長」にも立候補。3名の立候補の中で簡潔なマニフェストを述べた上で投票を行い、結果としてそれなりの僅差を制して晴れて「学年委員長」にも就任と相成った。あくまで学年集会レベルの決議権と、年間に2,3回ほど高校全体での集会で大まかな学年全体の近況を話すような仕事をするだけなのだが。

学校生活もこの頃になると、少しではあるが全体の解像度がそれなりに上がっている頃であり、生徒側も先生によって授業態度を変えるようになっていく。その中でも、高校1年次に私の属するクラスを担任して頂いた先生はひと際「ナメられて」いた。絶妙に天然というか、挙動がユニークでありながら、自称「暴力団の組長」。高校1年の学年末試験後、3月頃に企画されていた研修旅行におけるしおりの読み合わせの際にある生徒が「不良に絡まれたりカツアゲに遭いそうになった時はどうすれば良い?」との問いに対して「『俺の担任は〇〇だぞ』って言えば怯むから。大丈夫だから」と仰っていた事は今でもよく覚えている。
私は後に自身を「悪魔」という設定で部活動を行う事になるのだが、そのモチーフとなった人物の一人がこの先生なのである。

当時、TVで人気を博したタレントの一人に、元総理大臣の孫でミュージシャンの「DAIGO」がおり、身近な単語をアルファベットの略語に変換するのが学校で流行っていた。とりわけ、物理の単語の中で頻出の「垂直抗力」→「SK」、「鉛直方向下向き」→「EHS」は物理の内容を理解(というより暗記?)するのに大いに貢献したかもしれない。

もう一つ著名人の印象的な事象としては、アーティスト「マイケル・ジャクソン」の訃報である。元々身体を動かすのが好きであった当時の私はこれを小耳に挟んだ事で「唐突にマイケル・ジャクソンの魂が憑依して踊りだす」という設定で高校生の生活をしばらく過ごす事になっていた。哀悼の念もへったくれもなかったと、今ではとても反省している。

生誕10000日を迎えました。その2

約2年3カ月にわたる受験勉強の果て、志望度の高い武蔵工業大学付属中学校(以下「ムサコー」)への入学を果たした私。
しかし、中学受験を補欠でこそあれ乗り越えた安堵感と、それまで遊べなかった事により抑圧されていた私自身の娯楽欲が抑えきれず、最初のおよそ半年はほぼコンピュータゲームに明け暮れる日々であった。

中学1年生で人生で初めてとなる「中間試験」、「期末試験」を受ける事になるのだが、前述した通りの体たらくで勉強には全く身が入っておらず、試験の成績は当時在籍していた240名のうち下から20位くらいの順位となり、1学期を通じての評点に至っては240位/240人と、学年の最下位となってしまっていた。
通知表を見た母親が叱るわけではなく珍しい物をみたような反応であった事も印象に残っている。後に少しずつ回復しておおよそ180位くらいまで浮上していくのはまた別の話。

ところで、ムサコーにおいては学年ごとに「学年主任」1名と各クラスの「主担任」によって「担任団」が形成されるのだが、当時(中学1,2年時)の私のクラス担任と、在学中6年間通しで学年主任を務める事になる先生には、極めて手厚いケアをしていただいた。
この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。

1学期の終業式が終わって間もなく、「林間学校」が行われた。3泊4日だったのだが、それまでの人生で2泊3日より長く家を空けたことが無かった筆者にとっては新鮮な感覚があった。
この時、、実は行先さえも今となってはまともに覚えていない(長野県菅平だったか?)のだが、、印象的な出来事としては、旅行中の4日間のうち3日目に誕生日(13歳)を迎える事になるのだが、それを旅行中にはすっかり忘れていた折の出来事であった。大部屋で8人くらいが一斉に睡眠を取るのだが、寝る前に友人同士のノリで授業で覚えたての英語で半ばふざけて会話をしていた時である。
友人A “What’s your name? “
友人B “My name is 〇〇.”
友人A,B “ウェ~~イ!ww”
友人A “How are you old? (私に対して)“
私「(!)そうだ! 今日は俺の誕生日じゃん!!」
友人A,B 「マジで!? おめでとう!! ウェ~~イ!ww」
、、という具合で、自身の誕生日である事に気づいたのが当日の21時頃になった事が印象的な出来事となった。

ムサコーライフを語る上でまず外せないのは、やはり「柏苑祭」であろう。正しい読みである「はくえんさい」では間違いなく変換ができず辞書登録を余儀なくされる名前の文化祭であるが、在校生のほぼ全員にとって勉学以外に全身全霊を捧げられる最良の空間といえよう。
初めて「柏苑祭」に私が登場したのは小学6年生、つまり入学前の最後の年になるのだが、そこで私は数多くの展示を見学させていただいた。その中でも「マルチメディア研究部」における自作のPCゲームに感銘を受け、「ムサコーを第一志望としよう」と決める大きな決め手となったのである。
現役生として初参加となった中学1年時は「3学年合同展示」に参加したのだが、出展に関してはほぼ先輩に叱られた記憶しか残っておらず、いい思い出はさほど残っていない。私個人としてではないが、学校の備品である学習机をハプニングで破損してしまうアクシデントに対して、当時中学3年生のクラス担任であった先生に「人任せにしてんじゃねぇよ!!」と怒鳴られたりもした。一方で吹奏楽部による演奏や「エレクトロニクス研究部」による展示、校内BGMとしてHapiness(嵐)や小さな恋のうた(DragonAsh)が流れていた事などは良き思い出として残っている。

中学2年生になり、クラスの顔触れが大きく変わる(当時は1年に1度のペースで担任と生徒が入れ替わっていた)のだが、結果として学年の中でも授業態度の良くないクラスとなっており、この1年間は授業を担当した先生の大半の逆鱗に触れる事となったのが印象的であった。

この頃の趣味の方について特筆すべきは、やはりビデオゲームとテレビについてだろう。
我が家庭ではこの頃NintendoDSを購入しており(最終的に合計4台。うち一台は祖父へのプレゼント)、マリオやカービィ等の任天堂ソフトを中心に様々なソフトをプレイしていた。中でも「だれでもアソビ大全」というソフトには多数のテーブルゲームが収録されており、後に生涯の趣味となるボードゲームの基礎的な知識の礎となったと感じている。
特に印象的なソフトは「おいでよどうぶつの森」。購入をしたのは2007年頃だったはずだが、本体の日付をわざと1年遅れた設定にして起動した上で、プレイの密度を高めて徐々に追いつくムーブを行った事を覚えている。
地上波のテレビ番組では、2000年代後半からお笑い芸人の多く出演する番組が増えていた。ネタ披露番組はそれまで「爆笑オンエアバトル」「エンタの神様」の2つが主であったが、「爆笑レッドカーペット」「ドリームマッチ」「あらびき団」等が新たに始まった。バラエティ番組についても、「めちゃイケ」「はねるのトびら」「ロンドンハーツ」のように、メインの出演者が芸人である番組の比重が高まっていた。他方では、「ネプリーグ」「Qさま」「ジャポニカロゴス」「ヘキサゴン」「IQサプリ」のようなクイズ番組も良く視聴しており、お茶の間の話題の大半をテレビが彩っていたといっても過言ではなかろう。
ビデオゲーム以外では、家庭でのオンライン環境が安定したのをきっかけにPCでインターネットに接続する習慣が定着したのもこの頃であった。前述したゲーム(特に「おい森」)の攻略掲示板には多大な助力を頂いた一方、私自身もプレイデータや花の交配といった検証結果レポートを投稿・追記した。
とりわけ私はインターネット掲示板の「2ch」(現「5ちゃんねる」)の閲覧を盛んに行っていた。2chでは話題のテーマ毎に「板」なるものが存在しているのだが、私は専らビデオゲームやテレビ関連の板に「生息」していた。昨今では特に取り沙汰されて問題になっている「ネットリテラシー」の概念だが、当時中学生の私はあまりそれを持ち合わせておらず、画面を隔てた相手と口喧嘩に発展する事も何度かあった。それらの出来事は後に、今の私のSNSの利用スタイルに活かされる事になる。

同級生について実名を伏せた上で少し触れると、名字が学年通しで自分の後ろにいた男とはそこそこ仲が良かった。家が近所であり、一度だけだが近くのデパートで偶然エンカウントした事もある。恰幅の良くサッカー部で活躍しており、風の便りによると都内でそれなりに優秀な公立大学へ現役で進学したという。
また交友はさほど深くなかったが、小学校が唯一同じであった男は、ポケモンに傾倒していた。彼は校則で禁止されているにも関わらず校内にゲーム機を持ち込んでおり、自身が授業を別教室で受けていたタイミングで彼の席からDS本体を偶然見つけられて本人が知らないまま没収された現場では失笑を禁じえなかった。
その他に印象に残っている同級生としては、およそ以下の通りだろうか。
・怒りのあまり自習の時間に教室の壁に絵の具で落書きをした男
・放課後に悪戯で黒板消しクリーナーに水を大量に注いだ男
・校舎のベランダに閉じ込められて怒り、扉を蹴飛ばして鍵ごと破壊した男
・ライトノベルを愛読しており、黒板一面に「撲殺天使ドクロちゃん」の絵を描いた男
・昭和レトロを愛して十八番は「リンゴの唄/並木路子」、単語帳の例文をほぼ覚えた男
・机の周りが異様に散らかる男(名字をとって通称「〇〇ワールド」)
・文化部(将棋部だったか?)でありながら怪力の持ち主で趣味が手品の男
etc.. と、法律に触れないエピソードに限ってもこの濃さである。これらの交友関係、ひいては生活環境に身を置いた6年間が後の人生に如何程の影響を及ぼしたかは計り知れないのは言うまでもないであろう。他クラスの黒板を消すために学年中の全クラスの時間割を把握しきった私の言えた義理ではないのだろうが。