同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その6

前述した通り、高校3年の3学期は授業が行われない。校舎へ赴くのは専ら受験の経過報告と共に学んだ友との最期の交流のためという意味合いが強かったのだが、私の戦況があまり芳しくない様子であったゆえ先生方にもかなり心配されていた。受験戦略としては、あくまでも前向きに切り替えを行うように励まされたりもしていた。元々、学年全体に「外部の大学を受験する生徒はMARCH以上には全員が現役で合格できる」くらいの空気感が蔓延していたが、実際の受験を通じて現実を思い知らされた同級生もそれなりに多かったようにも感じられた。
受験とは関係のない戯言ではあるが、卒業式を間近に控えた頃に言われた印象的な同級生の発言は、大きく2つある。
一つは、ものつくり大学のオープンキャンパスへ赴いた別の同級生に言われた「大学名が彫られた石碑の周りは何もなかった、草原がただ広がっていた」というもの。私は思わず「もの作れてないじゃねーか」と口走った記憶が今も鮮明に残っている。
もう一つは、まず前提として、私は生来かなり強めのくせ毛の持ち主であるのだが、この件について同級生が語った「大髙が卒業式にストレートパーマをかけて来たら、、泣くに泣けなくなるわ!」という一言である。それほど、私の髪質は良くも悪くも印象的であったのだろう。
首の皮一枚を繋いだ形で手にした青山学院大学の合格。これについても早々に高校へ赴いて通達を行ったのだが、6年間を共にした学年主任の先生と熱い抱擁を交わしたのはとても印象的であった。他の担任であった先生方も口々に祝福の言葉を多くいただいた。とても暖かい学校で本当に良かったと、残り僅かな生徒生活にして考えさせられた。
卒業にあたって学校で行ったイベントは卒業式だけではなく、懇談会があった。新宿のハイアットリージェンシーにて、同期全員が円卓を囲んで、生徒1名につき保護者1名ずつ後ろの円卓で様子を見るイベントであった。入室時にお店の皆様が「いらっしゃいませ」と発声してお辞儀を少しずれて行うのが心に残っていたりする。基本的には食事をして歓談に勤しむのだが、途中でテーブル毎に簡潔なコメントを求められた。この時に印象的なシーンは、最後にクラスメイトとなった友人が卒業にあたっての抱負を語ったのだが、その内容が下品であったため、その友人の母親がテーブルにわざわざ近寄って物理的に注意をしていた(頭をどついていた)シーンであった。他にも、自分たちのテーブルでは『歓談』をしているのだが、隣のテーブルでは何やらコントのようなノリが始まった時に同卓していた友人の発した「こっち(の卓は)喋ってる、あっち(の卓は)騒いでる。(だから迷惑ではないし注意はされないだろう)」という台詞は時折思い出しては笑ってしまう。

2013年4月1日。私は渋谷の青山にある、青山学院大学の門をくぐる事になった。
家族が全員で校門の前で写真を撮ろうとしたのではあるが、やはり人気の学校ではある故に写真を撮るにも列に並ぶ必要があった。この日は正装をした記憶があるが、緊張して詳細なエピソードが記憶に残っていない。

どちらかと言えば、入学直前の日程となる3月下旬に開催されていた「数学リメディアル」というプログラムの方が印象的であった。内容は、大学の数学への橋渡しとなる高校までの数学をおさらいするものであったが、質問に対応するという形で先輩方と交流をする機会が設けられている形となっており、大学入学後のキャンパスライフについてのイメージを掴むよいきっかけとなっていた。また先輩方による部活動の紹介の時間もあり、個人的には海外渡航サークルに所属していた先輩の名字が特徴的であったのが印象に残っている。

ところで、青山学院大学の本拠地は青山であり、実際に大半の学部は青山のキャンパスで講義を開講しているのだが、私が所属した理工学部は神奈川の相模原市に所在しており、講義の大半はこちらで受講するのである。
個人的には、実家から渋谷へは電車で移動するのに20分足らずとなるので、実際に通学をする前はかなり楽に通学ができる期待があったのだが、実際には入学試験の受験と入学式、卒業式以外では公式の行事で出入りをしない結果となった。相模原のキャンパスの方が新しく綺麗な建物ではあったが、少し残念である。

4月2日には、入学にあたっての健康診断と、英語のクラス分けを目的としたTOEICの受験があった。
高校時代は学校が精力的に取り組んでいた事もあって英検は準2級まで取得しており、試験には「場慣れ」していた自負があったのだが、TOEICとあっては同じ英語の試験でも求められる力や形式が大きく異なっており、非常に困惑したのを覚えている。何より前日の事もあって体調が万全でなく、先に行われたListeningパートはすんでのところで切り抜けたものの、Readingパートに移行して10分ほどで睡魔に負けてしまったのである。試験室での「試験時間終了10分前」のアナウンスに起こされる体たらくを晒したのであった。

4月3日は、もうすぐ始まる講義へ向けて参考書の購入やキャンパス内の建物の配置等についての説明を受ける合間に、サークル活動への勧誘を受ける予定であった。
この時、サークルの勧誘スペースでは一つの教室に長机が4つほど置かれて1つの長机に2つの長机という形式で行われていた。青学ではのべ3桁にも及ぶサークルが存在しており、この日もたくさんのサークルが新入生との出会いを求めて勧誘に勤しんでいた。
ある教室に入ると、初めに目についたのは、奥に笑点を思わせるような6名ほどの人数のカラフルな着物の皆様。その手前には、先の数学リメディアルにてお世話になった、珍しい名字の方。この先輩も私の事は覚えてくださっており、それなりに会話が弾んでいた。
そして、この様子を見ていた着物の集団、、落語研究会の先輩方は、私の話しぶりに未来を見出したようで、私にロック・オンをしたようであった。落語をやる部活であるはずなのに、ある一人は「落語をやらなくていい! 即戦力になれるから! とりあえず入って!」という意味の通っていないようにも聞こえる言葉で自分を引き入れようとしていた。
今後の予定等を連絡するためとして、一通りの連絡先と氏名を記入して一度、その場を後にして引き続き他のサークルを吟味していたのだが、ふと携帯電話の画面を見たら4件ほどの不在着信が届いていた。全て同じ番号。折り返しかけなおしてみると「落語のブースに戻れ」との指示があった。何かの謎解きに巻き込まれたような不安に駆られながら、また一通りの勧誘を受けて、ブースを離れた。その後、他の用事をこなしていたところで、先と同じ番号から再び鬼のような着信が入っていた、、。結果、落語研究会のブースには1日のうちに3回も赴いているのである。
結果、私は熱意に半ば押される形で落語研究会の部員となるのである。

他にも大小さまざまなオリエンテーションを経て、4月の中頃から一般の講義が始まることになった。とはいえ、講義も基本的に初回は科目全体の概要を説明するのだが。
この時期は何より学生生活に「慣れる」事が肝要とされる時期ではあるが、私はとりわけ調子を崩してしまいがちになる傾向があった。いや、言い訳がましくなるのは見苦しいが。講義を行った教室やら学生食堂のフロアやらに、教科書から当時持ち歩いていたリュックサックに至るまで様々な遺失物を生み出してしまったのである。その数は最初の4月の一カ月の間に、6つにも及ぶ。一週間の間に2つずつのペースであり、高校から一緒に青山学院へ進学した同期の友人にほとほと呆れられた事を覚えている。

相模原の落語研究会の部室には、決まった曜日に先輩が勉強がてら入室しており、私も水曜日に講義の終わりに訪れて雑談をするのが慣例となっていた。
とある5月の日であったか、高校から青山学院の理工学部、化学科に進学した先の同期が落語研究会の隣の部屋に入るところを見かけた。聞くところによると、同じ学科の同期が「競技百人一首」を嗜むサークルを立ち上げ、その初活動が行われるらしかった。そこで私は試しに活動を見学する事にした。結果、そのまま3時間ほど活動に参加させて頂き、あれよあれよの間に「かるた愛好会」の正規のサークルメンバーとなっていたのである。
後に聞いたところによると、「競技百人一首」を行うサークルは、俗にいうMARCHの学群にある大学では唯一、青山学院にだけ存在しない状態であったらしい。後に初代サークル長となる同期が高校から有段者であったのだが、入学するまでは知らなかったらしく、別のサークルに入っていた同期の名前を借りてサークルを設立したのが始まりであったという。

落語研究会と、かるた愛好会。私は大学生活を通じて多くのサークルに加入ないし活動へ関与する事になるのだが、この2つのサークルが現役生として過ごす4年間を通じて所属し、また以後の人生を大きく彩る事になる。
 

一覧に戻る

コメント

  • コメントはありません。

同窓会ブログを開設すると、
コメントの閲覧・送信ができます。
登録済みの方はログインしてください。

ブログを開設