生誕10000日を迎えました。その7
ひとまず、大学生活が始まった時点での人間関係を振り返っておこうと考える。
まず、高校から青山学院大学の理工学部に現役生として進学をしたのが私自身を含めて6名存在していた。このうち2名は大学からの指定校推薦による進学である。
(話が前後してしまうが、高校の同期は学校の「進学校」へ向けた前衛的とも言える指導の賜物と言うべきか、法政大学からの推薦については志願者不在につき辞退となった。要求される高校での成績がやや高めに設定されていた事も一因かもしれないが)
当時の東京都市大学付属高校の卒業アルバムには、卒業時に任意の人物に寄せ書きのようにメッセージを貰えるページがあるのだが、既に青学の指定校推薦を貰っていた同期が「大学に入ってもよろしくな!」というメッセージをしたためていた。これ自体は卒業式の日に起こっているが、私が青学からの補欠合格連絡を受けたのはこれより後になるので、母親は「予知能力の持ち主?」などと驚いていたりする。大学に入って百人一首のサークルに入るきっかけとなったその人でもあり、やはり彼は何かを持っているような予感がする。現在でも連絡を取っている数少ない親友の一人である。
もう一人の推薦組は、硬式野球でのエースであった人物である(余談だが、高3時に都市大学付属高は甲子園の予選会で3回戦に進出した。ここで本選進出の本命の一角である帝京高校に0-18で敗れたものの当時の最高成績を更新している)。高校生活の後半で同じクラスで席も近かったので、既にある程度は打ち解けていた関係であった。
一般受験を経て青学へ進学したうちの一人は、学科まで自分と同じ電気・電子工学科になった。また別の一人は物理・数理学科に行ったのだが、数理系の科目に秀でている関係で頻繁にノートを借りたり定理を教えてもらったりする事になる。
先に述べた「数学リメディアル」において、たまたま近くの席に座っていた(当時の私は視力の矯正が行われていなかった事もあり、特に指定が無ければ前列に着座していた)2人と連絡先の交換を行ったりもした。
大学1年次の講義は大別すると学科の専門科目(私は電気系)・学部で共通の科目(数理系や実技演習)・外国語関連(英語、第二外国語)・大学の定めた教養科目(大項目4つあり、卒業には各1つずつ必須。受講に抽選を要する)の4つに大別されるが、学科科目は同じ学科の同期と、数理系科目はクラス分けの関係で推薦組2名と同じコマであった。また第二外国語の選択とTOEICの成績が「硬式野球のエース」と同じであったり抽選に当たった教養科目もたまたま同じ教室でノートを借りる彼と受講したり。。と、偶然が重なった結果として、1年時に履修した講義の全てで高校からの同期が一緒に受講している事態となった。
ちなみに、電気科の特性はというと、「必修科目が多い」の一言に尽きるだろう。当時の理工学部での年間履修単位数の上限52(教員免許の獲得を目指す「教職課程」を申請した場合は+8。これは大学全体で共通)に対して39単位が必修で埋められており、数理系の演習科目と物理学を各前期と後期・2つ教養科目を入れた時点で実質「フル単」の状態であった(厳密には51単位だが)。
理工学部の中では、これとよく対比になるのは化学・生命科学科であろう。こちらでは選択必修の科目が非常に多いのだが、ある程度の広さを持つ分野ごとに必要な単位数が決まっていて(シラバス上では「〇の10単位中8単位必須」「▽の8単位中6単位必須」のような記載がされていた)、事実上は必修のような扱いの科目も非常に多かったようである。それでも履修登録では科目を入力する必要があるのだが。
ところで、私が落語研究会(以下、原則『落研』と記す)に招かれた「本当の理由」についてだが、これには一人の人物が大きく関わっていた事が明らかとなった。
当時、落研に所属していた「ゴリさん」という先輩がいたのだが、この人がそれは大層「狂人」と関わるのが好きな人間であった。この先輩は4年生であったのだが、後に聞いたところによると留年をして大学の在籍は5年目になるとの事であった。この方を含む当時落研に所属していた部員の方が狂人を愛しつつ真人間へと矯正する機関として「落語研究会」の方針を定めていたのである。
そして、私自身が落研の一員として学生生活を全うする事を誓ったのもゴリさんの存在が大きいのである。
私は前述の通り在学中には多数のサークルに所属をしていたのだが、その全てが上手くいった訳ではないのである。別のサークルの集まりで部員との関係が悪くなった後に落研の部室へ赴いた事があったのだが、その時は部室にゴリさんが一人で(記憶が正しければ)漫画を読んでいらしていた。私はサークルでの出来事を話した訳ではないのだが、何かを悟ってか悟らずしてか、私の面倒な絡みにも全く嫌な顔をせずに応じて、ただ話を聞きつつも大学生活や趣味の話をしていただけたのである。時間にしては20分程度だったと記憶しているが、この事によって当時の私は心が救われたのである。この出来事を通じて、私は「誰かの心を救える」存在になる事について考えるようになり、後の生き様に大きく影響を与える事になる。また人間関係の嗜好も、法とモラルに触れない程度の狂気を好んでいくようになっていった。
この頃のデジタルゲームは、世間的な流行から見ればやや低迷期に入っていた、のかは不明だが、ニンテンドーDSの一通りのソフトを遊んだ後は携帯電話からブラウザサイトに接続する形態をとるゲームが流行した。端を発するのは恐らくdocomoの「iモード」だが、広く知られるのは「モバゲー」だろうか。
私の家では専ら「GREE」のゲームが流行っていた。母親が「ハコニワ」を始めていた事がきっかけで、私も「釣りスタ」「ドリランド」をプレイしていた。
ドリランドは用意された幾つかの地層?で化石を発掘するゲーム、釣りスタは用意された幾つかの釣り堀で魚を釣るゲームであり、どちらも凡その最終目的は図鑑を埋める事であった。この頃になると、既にインターネットへのアクセス環境が一般家庭にもおよそ整備されるようになった関係もあって攻略情報が出回っている状態であった(そもそもゲームのサイトから攻略情報の掲示板へのリンクが設けられていた。俗に言う「公式」である)。そんな訳で、攻略情報をある程度は集めた上で、ゲームでは金策をして目的の魚や化石へ向けた装備を整えて、、というルーティンを時間の許す限り行っていた。非公式のサイトで編み出されたバグ技に頼ったりブラウザの有効期限が切れてアイテムがロストしたのも一つの思い出となっている。
高校の頃には泊まりのイベントには必ず教員が引率していたが、大学になると学生のみでサークルの合宿が行えるようになった。
私の初めての学生のみで行う泊まりのイベントは、かるた愛好会の夏合宿であった。当時は在籍者の殆どが1年生であり、参加者は11名の同期のみであった。当時は初めてのイベントとあって、練習試合と食事以外はスケジュールが殆ど決まっていなかったのである。大学生故の体力もあり、夜にはなかなか眠らなかった事を思い出す。ここで編み出された遊びとしては、創設者の兼任していたサークルの呑み会でのゲーム「パニパニゲーム」(リズムに合わせて、指名された人が振り付けに従い次の指名をする。両隣の人は別の振り付けを行う必要があり、振りを間違えたプレイヤーがペナルティ)を改良した「ほうれんそうゲーム」(両隣の人が「にんじん」と言ってグータッチの振り付け、指名された人から遠いプレイヤーは「ほうれんそう」と言いつつ両手を広げて床を叩く)であった。入浴の後にこのゲームを行ったのだが、事情を知らない部外者から見ると宗教にしか見えないと専らの噂であった。既に床に伏している合宿の参加者の部屋の周りで「ほうれんそう」を連呼しながら壁を叩くシーンはとても面白かった(眠っていた本人は傍迷惑だろうが)記憶が鮮明に残っている。
まず、高校から青山学院大学の理工学部に現役生として進学をしたのが私自身を含めて6名存在していた。このうち2名は大学からの指定校推薦による進学である。
(話が前後してしまうが、高校の同期は学校の「進学校」へ向けた前衛的とも言える指導の賜物と言うべきか、法政大学からの推薦については志願者不在につき辞退となった。要求される高校での成績がやや高めに設定されていた事も一因かもしれないが)
当時の東京都市大学付属高校の卒業アルバムには、卒業時に任意の人物に寄せ書きのようにメッセージを貰えるページがあるのだが、既に青学の指定校推薦を貰っていた同期が「大学に入ってもよろしくな!」というメッセージをしたためていた。これ自体は卒業式の日に起こっているが、私が青学からの補欠合格連絡を受けたのはこれより後になるので、母親は「予知能力の持ち主?」などと驚いていたりする。大学に入って百人一首のサークルに入るきっかけとなったその人でもあり、やはり彼は何かを持っているような予感がする。現在でも連絡を取っている数少ない親友の一人である。
もう一人の推薦組は、硬式野球でのエースであった人物である(余談だが、高3時に都市大学付属高は甲子園の予選会で3回戦に進出した。ここで本選進出の本命の一角である帝京高校に0-18で敗れたものの当時の最高成績を更新している)。高校生活の後半で同じクラスで席も近かったので、既にある程度は打ち解けていた関係であった。
一般受験を経て青学へ進学したうちの一人は、学科まで自分と同じ電気・電子工学科になった。また別の一人は物理・数理学科に行ったのだが、数理系の科目に秀でている関係で頻繁にノートを借りたり定理を教えてもらったりする事になる。
先に述べた「数学リメディアル」において、たまたま近くの席に座っていた(当時の私は視力の矯正が行われていなかった事もあり、特に指定が無ければ前列に着座していた)2人と連絡先の交換を行ったりもした。
大学1年次の講義は大別すると学科の専門科目(私は電気系)・学部で共通の科目(数理系や実技演習)・外国語関連(英語、第二外国語)・大学の定めた教養科目(大項目4つあり、卒業には各1つずつ必須。受講に抽選を要する)の4つに大別されるが、学科科目は同じ学科の同期と、数理系科目はクラス分けの関係で推薦組2名と同じコマであった。また第二外国語の選択とTOEICの成績が「硬式野球のエース」と同じであったり抽選に当たった教養科目もたまたま同じ教室でノートを借りる彼と受講したり。。と、偶然が重なった結果として、1年時に履修した講義の全てで高校からの同期が一緒に受講している事態となった。
ちなみに、電気科の特性はというと、「必修科目が多い」の一言に尽きるだろう。当時の理工学部での年間履修単位数の上限52(教員免許の獲得を目指す「教職課程」を申請した場合は+8。これは大学全体で共通)に対して39単位が必修で埋められており、数理系の演習科目と物理学を各前期と後期・2つ教養科目を入れた時点で実質「フル単」の状態であった(厳密には51単位だが)。
理工学部の中では、これとよく対比になるのは化学・生命科学科であろう。こちらでは選択必修の科目が非常に多いのだが、ある程度の広さを持つ分野ごとに必要な単位数が決まっていて(シラバス上では「〇の10単位中8単位必須」「▽の8単位中6単位必須」のような記載がされていた)、事実上は必修のような扱いの科目も非常に多かったようである。それでも履修登録では科目を入力する必要があるのだが。
ところで、私が落語研究会(以下、原則『落研』と記す)に招かれた「本当の理由」についてだが、これには一人の人物が大きく関わっていた事が明らかとなった。
当時、落研に所属していた「ゴリさん」という先輩がいたのだが、この人がそれは大層「狂人」と関わるのが好きな人間であった。この先輩は4年生であったのだが、後に聞いたところによると留年をして大学の在籍は5年目になるとの事であった。この方を含む当時落研に所属していた部員の方が狂人を愛しつつ真人間へと矯正する機関として「落語研究会」の方針を定めていたのである。
そして、私自身が落研の一員として学生生活を全うする事を誓ったのもゴリさんの存在が大きいのである。
私は前述の通り在学中には多数のサークルに所属をしていたのだが、その全てが上手くいった訳ではないのである。別のサークルの集まりで部員との関係が悪くなった後に落研の部室へ赴いた事があったのだが、その時は部室にゴリさんが一人で(記憶が正しければ)漫画を読んでいらしていた。私はサークルでの出来事を話した訳ではないのだが、何かを悟ってか悟らずしてか、私の面倒な絡みにも全く嫌な顔をせずに応じて、ただ話を聞きつつも大学生活や趣味の話をしていただけたのである。時間にしては20分程度だったと記憶しているが、この事によって当時の私は心が救われたのである。この出来事を通じて、私は「誰かの心を救える」存在になる事について考えるようになり、後の生き様に大きく影響を与える事になる。また人間関係の嗜好も、法とモラルに触れない程度の狂気を好んでいくようになっていった。
この頃のデジタルゲームは、世間的な流行から見ればやや低迷期に入っていた、のかは不明だが、ニンテンドーDSの一通りのソフトを遊んだ後は携帯電話からブラウザサイトに接続する形態をとるゲームが流行した。端を発するのは恐らくdocomoの「iモード」だが、広く知られるのは「モバゲー」だろうか。
私の家では専ら「GREE」のゲームが流行っていた。母親が「ハコニワ」を始めていた事がきっかけで、私も「釣りスタ」「ドリランド」をプレイしていた。
ドリランドは用意された幾つかの地層?で化石を発掘するゲーム、釣りスタは用意された幾つかの釣り堀で魚を釣るゲームであり、どちらも凡その最終目的は図鑑を埋める事であった。この頃になると、既にインターネットへのアクセス環境が一般家庭にもおよそ整備されるようになった関係もあって攻略情報が出回っている状態であった(そもそもゲームのサイトから攻略情報の掲示板へのリンクが設けられていた。俗に言う「公式」である)。そんな訳で、攻略情報をある程度は集めた上で、ゲームでは金策をして目的の魚や化石へ向けた装備を整えて、、というルーティンを時間の許す限り行っていた。非公式のサイトで編み出されたバグ技に頼ったりブラウザの有効期限が切れてアイテムがロストしたのも一つの思い出となっている。
高校の頃には泊まりのイベントには必ず教員が引率していたが、大学になると学生のみでサークルの合宿が行えるようになった。
私の初めての学生のみで行う泊まりのイベントは、かるた愛好会の夏合宿であった。当時は在籍者の殆どが1年生であり、参加者は11名の同期のみであった。当時は初めてのイベントとあって、練習試合と食事以外はスケジュールが殆ど決まっていなかったのである。大学生故の体力もあり、夜にはなかなか眠らなかった事を思い出す。ここで編み出された遊びとしては、創設者の兼任していたサークルの呑み会でのゲーム「パニパニゲーム」(リズムに合わせて、指名された人が振り付けに従い次の指名をする。両隣の人は別の振り付けを行う必要があり、振りを間違えたプレイヤーがペナルティ)を改良した「ほうれんそうゲーム」(両隣の人が「にんじん」と言ってグータッチの振り付け、指名された人から遠いプレイヤーは「ほうれんそう」と言いつつ両手を広げて床を叩く)であった。入浴の後にこのゲームを行ったのだが、事情を知らない部外者から見ると宗教にしか見えないと専らの噂であった。既に床に伏している合宿の参加者の部屋の周りで「ほうれんそう」を連呼しながら壁を叩くシーンはとても面白かった(眠っていた本人は傍迷惑だろうが)記憶が鮮明に残っている。