生誕10000日を迎えました。その8
落語研究会の活動の一環としては、学生のアマチュア落語家による大会が開催されているのである。参加の条件として「非プロ」「現役の学生」である以外は課されない、いわゆる「全国大会」は夏に「てんしき杯」、冬に「策伝大賞」がそれぞれ行われていた。落語研究会としては、これらの大会で優秀な成績を修めることを目標に自身の落語を極めていく趣きが強かったのである。それぞれ予選にエントリー可能な人数は毎年240名程度であるのに対し、決勝ラウンドに進出できるのは毎回10名ほどになるので「大会で決勝進出」が一つのステータスの基準として挙げられる事が多く、卒業後にプロへ転向する場合や就職に際して履歴書に記載するにも相応しい栄誉と言えるのである。
当時の青学落研は、策伝大賞において2年連続で決勝進出者を輩出するなど名門と目されていた。その機運もあり、初挑戦となる1年生も含む部員の大半がノリノリでエントリーを行った。お世辞にも落語が評価されているとは言い難い私もその一人である。
予選へのエントリーにあたり書類(とビデオ)による選考があるのだが、私の参戦した回の一つ前までは半ば形骸化しており落選者が10名も居ないとされていた。選考結果は審査の終わった順に郵送にて通知されるのだが、サークル単位でのエントリー人数が多かった大学を中心に落選の通知が相次いでいた。私はかなり遅れての通知であったゆえ評判を聞いていただけに全く疑問なく落選する事になった。
それでも先輩の勧めもあり、時々顔を見ていた他大学の同期との交流も含めて策伝の開催される岐阜は長良川へ十数名で赴いた。
策伝の予選は土曜日にほぼ1日かけて会場を4つに分けて行われ、その夜に決勝進出者が発表される。翌日の日曜日に決勝戦がホールにて行われて夕方に優勝者(及び2位と3位)が決まるのが大会のルールであった。
私は予選の日を、青学の先輩や多大の同期を中心に観覧をして回った。とりわけ、この年のてんしき杯で準優勝となった4年生の先輩は本命の1人とされており会場も超満員になっていたのが印象的であった。
もう一つは、同期として一人だけ書類選考を通過した男が居たが、予選での出番が会場のトリ(=最後の演者)であったのである。落語はやや拙いながらも至って綺麗に演じていたのだが、途中の扉を叩く所作で効果音を出すために扇子の根元で床を叩く際に、誤って扇子を握り損ねて無音で扉を叩いたのが一番のウケとなっていた件が印象に残っている。
結果としては、青学からは決勝進出者はおらず、発表の会場で多少の交流を経てホテルに入るのだが、ここでも只では眠らないのが学生である。
前の年に決勝に進出しており、同年に決勝進出した青学の先輩と6月頃に2人会(落語の寄席の一種。有志n名が中心となって開く寄席を「n人会」と呼ぶ)を開いた人物がいた。この方が学生落語界隈では著名な「ボードゲーム」の愛好家であり、先の2人会の打ち上げでも合間に行ったボードゲームに私も参加させて頂いた。私自身も後年にボードゲームを趣味の一つとするのだが、この方の影響が強かった事は疑いの余地がない。ともあれ、この夜もA.M. 3時頃までボードゲームで遊んでいたのである。
翌日、午前中は岐阜の付近を青学の部員一同で散策をして午後は決勝を観覧した。大会が無事に終わると、参加者一同が合同(大まかには東西で別れて開催だったと記憶している)の打ち上げを行うのが慣例であったのだが、ここでまさかの事態が発覚する。
私の携帯が行方不明となっていたのである。
打ち上げの終わり際に、先輩により参加者へアナウンスがなされた。すると、キャンパスが近く親交の深かった桜美林大学の同期が各種トラブルの対応に慣れており、発見まで携帯への不正アクセス防止のために携帯の会社への通知等を手配してくれた。心底焦ってはいたが、それでもある程度の心の平穏が保たれたのは彼の存在が大きかったのは間違いない。先輩方も、初対面であった人さえも慰めをして頂けた事で有難かったのと同時に、ある種の悪名を広げる結果となった情けない一件でもあった。因みに携帯電話は、決勝の会場で座った座席の下に置き去りになっていたのを翌日に回収し、事の経緯は全てSNSによる周知される処となった。
そのような日々を過ごし、勉強の方では一部の科目に苦戦しつつも気づいてみたら1年はすぐに過ぎていた。とりわけ時間を多大に割く必要に迫られたのは、実験科目のレポート課題であろう。
高校までも実験の授業があれば翌週までに振り返りのレポートを提出する必要はあったのだが、大まかな項目を除けば特に決まった形式などもなく、基本的には「出せばよし」のようなものであった。(その上でも筆者は3回のうち1回くらいの頻度で未提出だったりもするのだが、、)
これが大学になってからは勝手が大きく変わるのである。まず提出するレポートに使用する用紙のサイズにも指定があり、高校の頃に使用していたものが使えなくなったのである。一応用紙は大学の購買にて販売しているが、当時の私は「学校の課題に必要な道具は知識と筆記用具以外は提供される」という感覚があり、課題へ向けて物品を調達する(ために金銭を授受する)という感性がなかったのである。この辺りの風習に慣れるにも多少ながら時間は要したのである。また実験の内容が高校や並行して講義で学習している内容から理論が導けるような原理ではなかった関係で、原理について記述するにも複数の参考文献を要する等の理由で、大学の図書館で毎週2時間は最低でも過ごしていたりする。それでも学部で共通の科目ではあるので全体でも週のうち4~5時間程度には収まっていたのだが。
話を元に戻すが、1年時における私の成績は、全ての科目で合格を修めた。世に言う「フル単」である。講義科目ではギリギリ及第点(評価C)のものも少なからず見受けられたが、最終的な成績としてはGPA(青山学院大学で実装されている制度。理論上の値は0以上4以下だが、4を獲得するには履修する全部の科目で評価点90点以上が必要となるため現実には中々厳しい)2.53とまずまずの成績となった。後に聞いたところによると、学年の数値は2.4程度であり順位としても平均より少し上であったらしい。中高の頃は学年最下位に始まり一度も半分より上の順位になれなかった私としては色々考えさせられる。
ともあれ、不安要素も多かったものの結果としては何ら問題なく2年生に進級する事ができたのである。
個人の成績を表示するポータルサイトでは年度末の発表を踏まえて「〇年生に進級できましたので、これをご連絡致します。」のような文言が最後に1行で添えられていたりするが、理工学部は選択必修等の科目が不足していても自動的に3年生まで学年は上がる判定となるようなので参考にはあまりならなかったりする。
学生生活が2年目になると、当然ではあるが後輩ができる事になる。それに伴い、部活動においては、自らが勧誘を行う側に回る事になる。
私は大学全体でメインとなるキャンパスと拠点が離れていた事や当時の現役学生としては珍しくスマホユーザでなかった(コミュニケーションツールとしてLINEが十二分に定着する前後の過渡期の頃である)等の理由もあり勧誘活動を担当してはおらず、補助的に事務系の作業を肩代わりする程度であった。
落語研究会としては、部に興味のある新入生と懇談会を行う事があったが、会場へ向かうまでの集合場所で「ペットボトルの方ですよね?」と声をかけられる。この人物は高校時代の1つ後輩であり、捨てられたペットボトルのキャップを外して分別する私の姿を見かけて顔を覚えていたのである。…「ペットボトルの方」とは?? などと考えて思考がおいつかなかった事が今も鮮明に思い出せる。彼は高校時代には学校行事にも積極的に取り組むタイプで学年でも中心人物といえる男であった。
勧誘を目的としたイベントの中でも印象に残っているのは、複数の大学に籍を置くメタル系バンドサークルが合同で開催した「HELL YEAH FES」(通称「ヘルフェス」)である。各サークルから一組ずつ、計20近くにも及ぶバンドが集結して丸1日演奏を行うもので新入生であれば無料で入場できるライブイベントであった。今なお多くのバンドが愛してやまない、渋谷は宇田川町のライブハウス「asia」にて、それは執り行われた。
高校の頃は欧米のバンドが好きな同級生が多く、柏苑祭でも8人くらいで列を成してヘドバンを行う事がある程であった。そんな同級生達の強い影響でライブハウスに赴くことが何度かあり、モッシュやツーステはそれなりに心得があった。
少し話がそれたが、この日に起こった事に話を戻そう。私はこの時点では演奏のサークルに所属しておらず、新入生としてではないものの実質的には部外者としての参戦であった。ところが、ライブハウスに入って程なくして高校時代の1年後輩の男の姿が見えた。彼は高校時代より、その独特な佇まいや行動で学内でも絶大な存在感を誇っていた。このライブで出会った先輩との2ショットがSNSに投稿されると、その先輩自身の拡散力も手伝ってか1日のうちに4桁にも及ぶ閲覧数に至ったりもした。また私は彼に目撃されたことで、後に落語研究会の活動で先の後輩経由で『あのキレの良いのっぽは誰だ!?』との評判を耳にする事となった。
そしてもう一人、高校時代に同級生であった男の姿もあった。話によると、1年遅れる形ながらも同じ青山学院大学に入学して、浪人の際に通っていた予備校で趣味のあった友人と2人で本イベントに参加したという。彼らともまた、在学中に時折ながら趣味の話に講じる仲になっていくのである。
かくして、この日の経験を基に本格的に音楽への熱が焚き付けられた私は、新たに趣味の種類が増えて学生生活がより豊かになっていくのである。
当時の青学には「メタルサークル」たる同好会が1つのみ存在しており、このイベントを経て多くの入会者が居た。私は主にキャンパスの都合により入会こそやや有耶無耶になった感が否めないが、所属者との関係は悪くなく、時折ライブに呼ばれる事もあった。
落語の方では、大学2年生になる直前にある話を持ち掛けられていた。それは、各大学の落語サークルの同期を集めた有志の寄席の合同主催者としての勧誘。依頼主は、策伝での携帯紛失事件で諸々の手続きを手配してくれた同期であった。
当時の青学落研は、策伝大賞において2年連続で決勝進出者を輩出するなど名門と目されていた。その機運もあり、初挑戦となる1年生も含む部員の大半がノリノリでエントリーを行った。お世辞にも落語が評価されているとは言い難い私もその一人である。
予選へのエントリーにあたり書類(とビデオ)による選考があるのだが、私の参戦した回の一つ前までは半ば形骸化しており落選者が10名も居ないとされていた。選考結果は審査の終わった順に郵送にて通知されるのだが、サークル単位でのエントリー人数が多かった大学を中心に落選の通知が相次いでいた。私はかなり遅れての通知であったゆえ評判を聞いていただけに全く疑問なく落選する事になった。
それでも先輩の勧めもあり、時々顔を見ていた他大学の同期との交流も含めて策伝の開催される岐阜は長良川へ十数名で赴いた。
策伝の予選は土曜日にほぼ1日かけて会場を4つに分けて行われ、その夜に決勝進出者が発表される。翌日の日曜日に決勝戦がホールにて行われて夕方に優勝者(及び2位と3位)が決まるのが大会のルールであった。
私は予選の日を、青学の先輩や多大の同期を中心に観覧をして回った。とりわけ、この年のてんしき杯で準優勝となった4年生の先輩は本命の1人とされており会場も超満員になっていたのが印象的であった。
もう一つは、同期として一人だけ書類選考を通過した男が居たが、予選での出番が会場のトリ(=最後の演者)であったのである。落語はやや拙いながらも至って綺麗に演じていたのだが、途中の扉を叩く所作で効果音を出すために扇子の根元で床を叩く際に、誤って扇子を握り損ねて無音で扉を叩いたのが一番のウケとなっていた件が印象に残っている。
結果としては、青学からは決勝進出者はおらず、発表の会場で多少の交流を経てホテルに入るのだが、ここでも只では眠らないのが学生である。
前の年に決勝に進出しており、同年に決勝進出した青学の先輩と6月頃に2人会(落語の寄席の一種。有志n名が中心となって開く寄席を「n人会」と呼ぶ)を開いた人物がいた。この方が学生落語界隈では著名な「ボードゲーム」の愛好家であり、先の2人会の打ち上げでも合間に行ったボードゲームに私も参加させて頂いた。私自身も後年にボードゲームを趣味の一つとするのだが、この方の影響が強かった事は疑いの余地がない。ともあれ、この夜もA.M. 3時頃までボードゲームで遊んでいたのである。
翌日、午前中は岐阜の付近を青学の部員一同で散策をして午後は決勝を観覧した。大会が無事に終わると、参加者一同が合同(大まかには東西で別れて開催だったと記憶している)の打ち上げを行うのが慣例であったのだが、ここでまさかの事態が発覚する。
私の携帯が行方不明となっていたのである。
打ち上げの終わり際に、先輩により参加者へアナウンスがなされた。すると、キャンパスが近く親交の深かった桜美林大学の同期が各種トラブルの対応に慣れており、発見まで携帯への不正アクセス防止のために携帯の会社への通知等を手配してくれた。心底焦ってはいたが、それでもある程度の心の平穏が保たれたのは彼の存在が大きかったのは間違いない。先輩方も、初対面であった人さえも慰めをして頂けた事で有難かったのと同時に、ある種の悪名を広げる結果となった情けない一件でもあった。因みに携帯電話は、決勝の会場で座った座席の下に置き去りになっていたのを翌日に回収し、事の経緯は全てSNSによる周知される処となった。
そのような日々を過ごし、勉強の方では一部の科目に苦戦しつつも気づいてみたら1年はすぐに過ぎていた。とりわけ時間を多大に割く必要に迫られたのは、実験科目のレポート課題であろう。
高校までも実験の授業があれば翌週までに振り返りのレポートを提出する必要はあったのだが、大まかな項目を除けば特に決まった形式などもなく、基本的には「出せばよし」のようなものであった。(その上でも筆者は3回のうち1回くらいの頻度で未提出だったりもするのだが、、)
これが大学になってからは勝手が大きく変わるのである。まず提出するレポートに使用する用紙のサイズにも指定があり、高校の頃に使用していたものが使えなくなったのである。一応用紙は大学の購買にて販売しているが、当時の私は「学校の課題に必要な道具は知識と筆記用具以外は提供される」という感覚があり、課題へ向けて物品を調達する(ために金銭を授受する)という感性がなかったのである。この辺りの風習に慣れるにも多少ながら時間は要したのである。また実験の内容が高校や並行して講義で学習している内容から理論が導けるような原理ではなかった関係で、原理について記述するにも複数の参考文献を要する等の理由で、大学の図書館で毎週2時間は最低でも過ごしていたりする。それでも学部で共通の科目ではあるので全体でも週のうち4~5時間程度には収まっていたのだが。
話を元に戻すが、1年時における私の成績は、全ての科目で合格を修めた。世に言う「フル単」である。講義科目ではギリギリ及第点(評価C)のものも少なからず見受けられたが、最終的な成績としてはGPA(青山学院大学で実装されている制度。理論上の値は0以上4以下だが、4を獲得するには履修する全部の科目で評価点90点以上が必要となるため現実には中々厳しい)2.53とまずまずの成績となった。後に聞いたところによると、学年の数値は2.4程度であり順位としても平均より少し上であったらしい。中高の頃は学年最下位に始まり一度も半分より上の順位になれなかった私としては色々考えさせられる。
ともあれ、不安要素も多かったものの結果としては何ら問題なく2年生に進級する事ができたのである。
個人の成績を表示するポータルサイトでは年度末の発表を踏まえて「〇年生に進級できましたので、これをご連絡致します。」のような文言が最後に1行で添えられていたりするが、理工学部は選択必修等の科目が不足していても自動的に3年生まで学年は上がる判定となるようなので参考にはあまりならなかったりする。
学生生活が2年目になると、当然ではあるが後輩ができる事になる。それに伴い、部活動においては、自らが勧誘を行う側に回る事になる。
私は大学全体でメインとなるキャンパスと拠点が離れていた事や当時の現役学生としては珍しくスマホユーザでなかった(コミュニケーションツールとしてLINEが十二分に定着する前後の過渡期の頃である)等の理由もあり勧誘活動を担当してはおらず、補助的に事務系の作業を肩代わりする程度であった。
落語研究会としては、部に興味のある新入生と懇談会を行う事があったが、会場へ向かうまでの集合場所で「ペットボトルの方ですよね?」と声をかけられる。この人物は高校時代の1つ後輩であり、捨てられたペットボトルのキャップを外して分別する私の姿を見かけて顔を覚えていたのである。…「ペットボトルの方」とは?? などと考えて思考がおいつかなかった事が今も鮮明に思い出せる。彼は高校時代には学校行事にも積極的に取り組むタイプで学年でも中心人物といえる男であった。
勧誘を目的としたイベントの中でも印象に残っているのは、複数の大学に籍を置くメタル系バンドサークルが合同で開催した「HELL YEAH FES」(通称「ヘルフェス」)である。各サークルから一組ずつ、計20近くにも及ぶバンドが集結して丸1日演奏を行うもので新入生であれば無料で入場できるライブイベントであった。今なお多くのバンドが愛してやまない、渋谷は宇田川町のライブハウス「asia」にて、それは執り行われた。
高校の頃は欧米のバンドが好きな同級生が多く、柏苑祭でも8人くらいで列を成してヘドバンを行う事がある程であった。そんな同級生達の強い影響でライブハウスに赴くことが何度かあり、モッシュやツーステはそれなりに心得があった。
少し話がそれたが、この日に起こった事に話を戻そう。私はこの時点では演奏のサークルに所属しておらず、新入生としてではないものの実質的には部外者としての参戦であった。ところが、ライブハウスに入って程なくして高校時代の1年後輩の男の姿が見えた。彼は高校時代より、その独特な佇まいや行動で学内でも絶大な存在感を誇っていた。このライブで出会った先輩との2ショットがSNSに投稿されると、その先輩自身の拡散力も手伝ってか1日のうちに4桁にも及ぶ閲覧数に至ったりもした。また私は彼に目撃されたことで、後に落語研究会の活動で先の後輩経由で『あのキレの良いのっぽは誰だ!?』との評判を耳にする事となった。
そしてもう一人、高校時代に同級生であった男の姿もあった。話によると、1年遅れる形ながらも同じ青山学院大学に入学して、浪人の際に通っていた予備校で趣味のあった友人と2人で本イベントに参加したという。彼らともまた、在学中に時折ながら趣味の話に講じる仲になっていくのである。
かくして、この日の経験を基に本格的に音楽への熱が焚き付けられた私は、新たに趣味の種類が増えて学生生活がより豊かになっていくのである。
当時の青学には「メタルサークル」たる同好会が1つのみ存在しており、このイベントを経て多くの入会者が居た。私は主にキャンパスの都合により入会こそやや有耶無耶になった感が否めないが、所属者との関係は悪くなく、時折ライブに呼ばれる事もあった。
落語の方では、大学2年生になる直前にある話を持ち掛けられていた。それは、各大学の落語サークルの同期を集めた有志の寄席の合同主催者としての勧誘。依頼主は、策伝での携帯紛失事件で諸々の手続きを手配してくれた同期であった。