同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その9

当時の関東の落語サークル周辺の界隈では、所属の大学やサークルの垣根を越えて現役学生同士で親交が深まり、独自に寄席を開催するのがイベントの一つであった。とりわけ特筆性の高い出来事としては、私の3年先輩の方が自身の出身大学の和室で毎月1度くらいのペース(あくまで体感ではあるが)で寄席を主宰しており、中でもクリスマスイブの当日午前中に開催を決定して14時頃には演者が7名ほど集まって何食わぬ顔で寄席を開催した1件は10年近く経った今でも現役生に伝説として語られていると聞いている。
先に述べた「2人会」というものに、私が主催の片割れとして声がかかっていたのは、3月の頃であったと記憶している。コンセプトは、大学の垣根を越えて同期の親睦を深めるのが目的であり、色物(漫才)の例外を除けば各大学から1名ずつ勧誘をしていたそうである。そして交通の便の良い立地であった青山キャンパスが開催地として白羽の矢が立つと共に演者として私が選ばれたのである。
寄席の名前は「俺達寄席」。なお私自身は共同主催であった自覚は実際のところ殆どなく、また後にシリーズとして開催される事になるなどとは露ほどにも思っていなかった。
日程調整やそれに伴う出演辞退などの問題もあったが、私の出番についての件がかなり大きな問題であったかもしれない。最初に話を持ち掛けられた際は、主催の2人で漫才を行おうと提案されていたのだが、如何せん漫才についてはノウハウもまるでなかった(この辺はサークルの色の違いに起因する側面もあるが)事で内容の変更をさせてしまったのである。私は落語をやる事になったが、どちらにせよ下手ではあり。良くも悪くも濃いキャラクターとして当時の関東学生落語の方々で名前が知れ渡る結果となった、、そうである。
個人的には課題が多く残ったものの、元の目標であった「同期の親睦を深める」といった点では、寄席の後の打ち上げも含めて結果的に大成功となり、10年近くが経過した今となっても人生でも屈指の良き思い出である。

2年生の5月に行われた俺達寄席の余韻が冷めない6月半ば頃、私は平日には相も変わらず実験のレポートに追われて営業時間いっぱいまで図書室に入り浸る生活を送っていた。
ある日、営業時間が過ぎた図書室を追い出されて大学の最寄り駅となる淵野辺駅へ歩いていた時であった。道中、黒塗りで細長い、いかにも高級そうな車の中から声をかけられた。
車の窓を開けて現れたのは、いかにも痩せぎすの壮年男性であった。彼の話によると「腕時計の押し売り?のノルマを達成できずに在庫を抱えてしまっており、このまま持ち帰ると会社から処分が下る。ここで出会ったのも何かの縁、1つで良いから内密に持ち帰って欲しい」との事であった。わざわざ時計のカタログ(後の展開を考えると偽造の可能性もある)を見せながら、本来は100万円ほどの価格で取引している旨を伝えながら、半ば押し付けてきたのである。
ここで男の要求は終わらず、「この後仕事の接待があり、銀座でネーチャンと呑む。時計の対価と言っては何だが口座から下ろしてでもくれないか」との事であった。『淵野辺から銀座への移動時間を考えると最低でも到着は23時以降であり接待の時間にしては遅すぎる』等、冷静に考えると不自然な点が多い状況ではあったのだが、当時の私は焦らされていた事も手伝って判断のできる状態ではなく、そのまま手持ちであった7,000円(口座からは下ろさなかった)を渡してしまった後、男と別れたのである。
電車の中で冷静になった私は、定期圏内の途中の駅で改札を出て近くの交番に駆け寄って一連の出来事を話した。交番に居た警官2名によると、私が疑念を抱いた通り時計は「明らかにブランドの高級品ではない」そうであった。また警察の立場として「経緯はともあれ現物として腕時計が残されている以上、詐欺としての立件は難しい」「本件は社会勉強の受講料と思って諦めた方が良い」との事であった。
当時の私はかなり悔しさが募っていたのだが、後に腕時計に書かれていた名前(ブランド名?)から調べてみると、件の腕時計の実際の相場価格はおよそ2,500円であり、被害額としてはおよそ4,500円と、大学生の遭う詐欺の被害額としては決して高額とは言えない価格である。落語をやる上で、冒頭に自己紹介がてら身の上話を行う「マクラ」として鉄板エピソードとなるにはそう時間を要さなかったのは言うまでもない。後に俺達寄席を共催した落語サークルの同期に注意喚起の目的で長々とメールに文章として書き下ろしたのは、また別の話。

先に述べている通り、実験科目の単位を取得するためにはレポートを作成する必要があり、これには毎週4~5時間程度が費やされる。大学生活に慣れてくると、レポートの作成に取り組むタイミングや場所に関してある程度は決まった「ルーティン」のようなものが自然と形成されてくるのである。
まず1年次に課されていた実験科目は理工学部全体で共通であり、中でも化学科の所掌である科目のレポートは1部の構成が手書きでA4の用紙に20枚前後のものであった。これが2年次になると、学科の科目になる事に伴って作成方法も変わり、ワープロソフトを用いて電子データによる作成が認められるようになるのである(というより、実験中にグラフ等を作成する関係もあるため実質的にPC必須)。このため、レポート作成に求められる環境が異なるのである。化学のレポートには知識が必要となるため紙媒体の文献を取り寄せるのが必須であったのに対して、電気工学のレポートは基本的に一部の原理を除けば演算や表・グラフの作成がメインとなるため、データを保存したUSBをPCルームに持参すればレポートは作成できるのである。
そのような事情の元、2年次以降は平日に淵野辺、土曜に渋谷にある青山キャンパスに赴きレポートの作成をして午後に部活動という活動をする週が大半を占めていた。稀に残件があって日曜日にもPCルームに赴くケースがあったりもしたが。
そして、いざPCルームに居る時でも単純にレポートだけに取り組んでいた訳でもなかった。大学のPCルームうち語学関連の講義に用いるために良質なヘッドセットが常備されている部屋も存在しており(感染症対策の求められる現在においては知る所には無いが、当時はそのような教室はさほど多くなかったと記憶している)、手ではレポートを作成しつつも耳ではYoutubeで楽曲を視聴していたのである。この頃はYoutubeの中で規制がさほど厳しくなかったのか、公式のチャンネルが提供しているMVだけではなく許可を得ていないと思しき動画も散見されていた。
主に聴いていたのは、高校時代に軽音楽の仲間内で演奏が流行っていた「オフスプリング」「9mm Parablem Vallet」のような曲と、00年代のポップスが中心であった。かつて通っていた学習塾のロビーで、リラクゼーション用途を想定したオルゴールVer. とピアノアレンジVer. のCDがローテーションで流されており、これを契機に「Mr. Children」「コブクロ」「平井堅」「SMAP」「福山雅治」「いきものがかり」等のアーティストに関心があった。
中でも思い出に残っているのは、塾でもオルゴールVer. をよく聴いていた「365日/Mr. Children」であり、初めて視聴した時は楽曲の素晴らしさに聞き惚れ、気付いたら(レポートを作成中にも関わらず)感涙してしまっていたのである。この経験が元で音楽への愛に目覚め、後の人生に大きく影響を与える事となる。

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