同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その11

一方で、これまでの大学生活においては「バイト」たる行為を行っていないのであるが、2年後期から3年前期まではスケジュールの空白が多く見受けられたのを契機とみて、学内にフリーペーパーとして置かれていたタウンワークを落研の部室に持ち込んで熟読したのである。当時の先輩や同期と相談をしつつ、日雇いの人材派遣系のバイトに情報を登録する形となった。
そもそもこの時点ではバイト、というか勤労という行為に対するイメージが固まっておらず「やろうと思えば誰でも大体できる」というような感覚であった。最終的に登録する以外のバイトとしては居酒屋のフロア担当者の募集についても面接を申し込んでいたが、2カ月の短期では募集をしていない旨を告げられて面接を中断された事は記憶に残っている。ちなみに競技かるたの練習試合の合間で休憩した20分間の出来事である。
基本的には人手を必要とする「軽作業」(力仕事も稀に含む)が前提とされており、臨海の地に位置する輸送業のセンターでの荷物の点検や地域の振り分け、大きなイベントの設営・撤収作業に伴う搬入出の作業がメインであった。原則として1日限りの契約ではあるが、前者のような運搬ルートに関わるものは事業所の営業日であれば毎日、人員の募集がされているため私自身も複数回にわたって赴いており、その場で恐らく似たような境遇の人物が数名ほど顔見知りになるような事もあった。後者のケースは単発であり、どちらかと言えば日当の給料は高めに設定されている傾向があった。また私が行ったのは1度だけだが中古PCの周辺機器を端子から合わせて梱包・発送する業務もあった。
物品の搬入にあたって製品や建物を傷つけるのは当然ご法度になるので厳重な注意を受ける事はある意味で印象的であったが、他方では仕事を行う上で守るべき責務についての社会勉強となった側面もあった。前述したPCの発送の際は責任者の方とマンツーマンで業務を行い、缶コーヒーを奢られながら世間話に講じたのも一つの思い出である。なお電車や専用シャトルバスの遅延等で集合時間に間に合わずに叱られる事も何度かあったりする。
最も印象的な出来事としては、発送時のバーコードリーダーによる検品作業を行った際に恐らく別の派遣会社からの人物が居たのだが、当時に人気のアイドルグループであった乃木坂46のメンバーに風貌が似ていたのである。休憩時間にお手洗いの場所を質問されたのだが、まさか日雇いのバイトをしている訳がないとは思われるので別人であろうが印象には強く残っている。

落語のサークルにおいては4年生を追い出す会として「卒業寄席」が冬休み中2~3月に行われる。出演者は当該サークルの卒業生・同期であるが卒業をしない人物やそれらの人物と親交の深い者が中心となり、お客様として他サークルの友達が来場するのが基本的な慣例である。
3月のある日、私は成城学園前の近くにキャンパスを構える成城大学の落語サークルの卒業寄席に赴いた。2年先輩の代は青山のサークル活動においてもお世話になっている関係で同期の当時4年生の先輩と一緒であった。
この寄席そのものは大きな問題もなく終わって先輩とも駅で別れたのだが、立地が徒歩10分程度のところにある我が母校、東京都市大学付属中高の様子をついでに見にいったのである。すると偶然、前に述べた同窓会の幹事を務めた2名に加えて年配の方1名が校門から出てくるシーンに出くわしたのである。
そのままなし崩し的に話の輪に加わり、駅付近のやや高級な喫茶店にて聞いたところによると、高校の同窓会には「理事会」たる運営組織が存在しており、少し前の「成人を祝う会」にて幹事を務めた2名は同期会の開催にあたり理事会より設営の援助をされていたというのである。共にいらした年配の方は私より44年前に高校を卒業した大先輩にあたる理事のメンバーであった。
それ以後はこの方と連絡を取り合いつつ、オブザーバーとして理事会へ出席をする事となるのだが、当時の理事会はメンバーの大半が還暦を超えており、全員がそれぞれの分野で相応の成功を修めている方々であった事もあり話の内容もあまり理解ができていなかったのが実際のところであった。ところが理事会の出席には3,000円の手当が付けられる形であったため、拘束時間が最大2時間から計算して前述の日雇いバイトより時給換算が高額となる事を見込んで出席を続けていたのである。
それから時を待たずして高校60期の3名が理事会へ加入と相成った。加入自体は翌年度の開始時点で内定していたが、受理されたのは5月の総会の時であったと記憶している。理事会の定例会は隔月でしか行われていなかった筈なので特別な集まりがあったのであろうか? あまり記憶が定かではない。この出来事こそが後の人生を大幅に変える事となった一因である事は間違いないのであるが。

3年生になった。
これまでの2年間で「必修」にあたる学科の講義科目は全ての単位を修得していたので、基本的には評価の高く付けられる傾向のある教養コア科目を選んで履修する方針であった。とは言いつつ、講義に関しての情報がなかなか入手できなかったので手当たり次第に空きコマを青スタで埋めていく形になっていたのだが。また学科の実験科目は2年次と同様に火曜と木曜の2回で毎週レポートの提出が必須である形式であった。2年後期のスタイルが1年通して行われる事になる。
講義の中では英語の技能を高めるものは3年生になったら必修ではなくなり、また技能の種類を選んで受講をする事が可能となった。更に週の中におけるコマ数が2年次までは2科目(講師は別の人)2コマであったのだが3年次では1科目1コマとなった。
そんな折、英語の教材としては大学の在籍と同時にe-learningのアカウントが個別に割り当てられていた事が明らかになった。というのも、1年次から教材の進捗が科目の成績に含まれてはいたものの、本格的に講師から講義中に積極的な声掛けがあったのは2年になって以後の事であったためである。
3年次になって時間に比較的余裕ができると、より深く取り組みを試みるようになっていた。というのも、このe-learningの中では教材に取り組んだ数を「マイル」という数値で加算されるシステムが内蔵されており、その数値がトップページに表示されるのである。また用意された教材がセクション毎に纏められたページを見つけた私は、講義の合間にPCルームに立ち寄って教材を進める習慣ができていた。結果、講義において指定される教材のみをクリアした他の同級生と比較すると、私が集めたマイルの数値は7倍ほどにもなっていたのである。

また、ここで新たに一人の人物にフォーカスを当てたいと考える。この男は私の1年後輩として文学部に在籍していたのだが、特筆すべきはそのサークルの在籍数。1年次での彼の在籍数はなんと7つにも及んでいる。その内訳は漫画研究会や茶道部といった文科系が多くを占めるがミッション系サークルも所属していたりもした。そして落語研究会、かるた愛好会の2箇所で私と共通のサークルに在籍した形である。
彼は小柄で人懐っこく天然な性格と言え、人によって評価が分かれる傾向にある人柄に見えていた。落語研究会では持ち前のユーモアと生真面目さや高い熱量で先輩から愛され、かるた愛好会では癒し系として男女問わず屈託なく接されていた(かるた愛好会は文系側の青山キャンパスは彼らの代を起点として人数が多くなっていたため近しい先輩が殆ど居なかったのである)
私は基本的には落語も百人一首も腕前では最終的に彼には追い越されてしまう形となっていくが、彼視点では複数のサークルに渡って共通で関わる人物が1人しか居ない事もあったとの事であり比較的ノリを一緒に行ったりする機会は多かった。一方のサークルのノリを他方へ持ち込んで「それ俺しか分からんやろ!」等とツッコむのが多かった記憶がある。

3年次の夏休みには、サークルの合宿や全国大会の遠征が多く予定されており、なんと5回にわたり2泊以上の滞在を予定されていたのである。そして、そのうち3回は上述の後輩が一緒に宿泊をする形となっていた。その中でも印象的な宿泊について述べていきたいと考えている。

生誕10000日を迎えました。その10

この頃になると、地上波のテレビはコンテンツとしての力が弱まっているような機運の高まりが感じられるようになり(とは言っても一時期ほどの絶対的な力が薄れた程度ではあるが)、元々2010年代から存在したらしい「ニコニコ動画」を始めとする動画サイトにコンテンツとしての機能が推移していった時期であった。なお私自身は大学でOfficeツールによりレポートの提出が必須となる大学2年時まではWindowsに触れておらず、家庭ではMacのPCでiTunesによって音楽を聴いたりインディーズのゲームをプレイしたりするような用途でしか使用していなかったのである。自身が中高生である時分に流行っていたらしい「ニコニコ動画」の文化については、大学に入ってサークルの先輩方からノリで学んでいった形である。
先に述べた通り動画サイトのYoutubeを頻繁に視聴していたのだが、当時のYoutubeでは楽曲以外にも「ゲーム実況」というジャンルの動画が投稿されていたのも特徴的であった。一昔前に人気を博していた「東方」のキャラクターの首から上のみにして簡略的なモーションを一通りライブラリに揃えているナビゲーターに解説をさせる動画も多く、これらは挨拶として決まり文句になっていた「ゆっくりしていってね!!!」というフレーズからその名がついたとされる「ゆっくり解説」なども挙げられる。
私がこの頃に視聴していたのは、動画内ではキャラクターに会話をさせてゲームをプレイする様子を見せる配信者「たくっち」「ぽこにゃん」等の方々である。ゲームの種類としては、アクションゲームのステージを自分で作成できる「マリオメーカー」や、仮想空間でのやや原始的な生活を体感できるPCゲームの「マインクラフト」等が挙げられる。他にも携帯のアプリゲームや当時に発売したものなど注目度の高いゲームがジャンル問わずに紹介されていて、とても面白いコンテンツであった。
もう一つあったのは、ニンテンドーDSの上位機種である「ニンテンドー3DS」の本体に内蔵されていた「うごくメモ帳」を用いて、お笑い芸人のネタのアテレコを棒人間や任天堂のキャラクターに再現させる(ニコニコ動画からの流れで、マクドナルドのマスコットキャラクターであるドナルドの姿も変わり種としてかあった)紙芝居のような動画が流行していた。主なネタ元の芸人は「陣内智則」「超新塾」「浅越ゴエ」などの、文字情報がメインとなるネタやギャグが多かった。
生活の中では、先に述べた楽曲垂れ流し動画をレポート作成と同時進行で視聴しているのに対して、ゲーム実況の配信は寝る前や余暇の空き時間が費やされるケースが多かった。元来、休日でも朝は7時には覚醒していて日中でも問題なく活動出来ていた私であったが、大学生の頃から朝が遅くなり、また昼食後の講義中に睡魔に襲われるケースが増えてきたような気がするが、恐らくはYoutube視聴の習慣による生活リズムの乱れが原因なのかもしれない。

2014年7月23日、私は数え年で20歳を迎えた。
この日は平日であり、前期の講義テストが目前の時期でもあり普通に講義に出席するのみで終わる予定であったのだが、青山キャンパスでは落語研究会の部室に頻繁に集まっていたメンバーで食事をしている(何か決定事項もあったかもしれないが、詳細は覚えていない)そうで、18時頃に同期の部員から電話がかかってきた。「特に用があった訳ではないが、暇だったらどう?」くらいのノリである。家族から誕生日の祝いを受けるかもしれないとも考えたが、呼ばれているなら行くくらいのノリで渋谷へ向かっていた。
現地では、何のこともなく普段からよく行っていた居酒屋で6人くらいが集まってダラダラと話すだけで誕生日であった事については簡単にしか祝われないのだが、やはり青春の1ページとして語るには不足ない1日を過ごせたと言えよう。個人的には変に特別扱いされるのもやや苦手な性分である事もあるので。

TVの話については、この頃は広い分野に関心が出ていた関係もあって「タモリ俱楽部」を視聴するようになっていた。週に1度、主に世間的には決してメジャーとは言えない細かいジャンルの専門家・好事家を招いて見識を深める特集を行う番組である。
この番組の中でほぼ必ず行われるコーナーとして「空耳アワー」というものがある。これは、日本製でない楽曲の一部分を聴いて、日本語でどう聴こえるかを視聴者がハガキで投稿、それに合わせて番組が映像を作成するコーナーであった。私は投稿こそした事はないが、父親の趣味であった「ビージーズ」「Jackson Brown」や高校の時分より自ら聴いていた洋バンドの曲が頻繁に取り上げられ、元々の楽曲のイメージが壊されていく感覚を楽しんでいた。時折、チェアマンのタモリ氏が原曲の意味や背景についても触れる事があり、意外と知らない見識も得られるのがタメになった。

2014年の11月頃であろうか。自宅に1通の往復はがきが届いた。それは、東京都市大学付属高等学校第60期生の、同期会の案内はがきであった。
当時の呼称は「成人の祝い」。後に聞いたところによると、これまで還暦を祝う会は毎年行われていた一方で成人の同期会は当代で初めて行われたらしく、また成人を迎える代が単独で同窓会のイベントとして会を行うケースは今のところ唯一であるそうだ。
当時、幹事として動いていたのは高1時に同じクラスであったが文系を選択した関係で以降は別クラスとなっていた同期であった。この男とはとりたてて親交が深い訳ではないが、何か奇妙な縁がある故か都内を電車で移動していると結構な頻度で出くわしたりするのである。
会そのものは2時間ほどしか行われていなかったようだが、学年に240名が在籍していたうち半数以上(正確な人数は覚えていない。なお別の高校を受験する等で中退をした人物の姿も見られた)が参加していた事もあって非常に濃い時間を過ごす事ができた。印象的な出来事としては、先輩の率いる社会人バンドによる演奏と床にこぼした氷を踏んで砕いた件であろうか。
最も印象的であったのは、出席していたとある同級生が当時は成人の年齢を迎えていなかったのだが、法令を遵守してアルコールを一滴も摂取していなかった件であろう。在学中にクラスの担任であり同期会に同席していた先生をして「芸能人としての覚悟」を示した態度を見た私は「自分には到底できる事ではない」と芸能人にかかる重圧と責任について深い感慨を得たのである。

2年間の講義が全て終わり、2年後期分の成績が3月初めに開示されると、一つも不合格とはならずに無事に3年次への進級が決まったのだ。余談ではあるが、2年前期は講義科目が多く履修単位数が34に上っていたが、その時も不合格の単位が無かった際には非常に安堵したものである。2年間で一度も単位を落とすことなく、累計の取得単位数は103に及んでいた。
問題点としては、フル単ではありながら「可」に該当するCの評定も多く、俗に言う「GPA」が今一つ高くない状況であった。後に分かる事であるが、3年前期までの同学年での順位は42位であったそうである。もう一つは、学部で共通の数学系科目と学科の専門科目を多く取得していた一方で大学共通となる教養科目である「青スタ」が殆ど取れておらず、その中で特に主要となる「教養コア」たる科目を4つのうち3つ取ったのみであり、それらを細分化した選択科目を全く履修できなかったのである。
この事を踏まえ、3年時は半期ごとに3科目ずつは青スタの科目を履修していき、学科の専門科目は少し抑えていく方針となった。
 

生誕10000日を迎えました。その9

当時の関東の落語サークル周辺の界隈では、所属の大学やサークルの垣根を越えて現役学生同士で親交が深まり、独自に寄席を開催するのがイベントの一つであった。とりわけ特筆性の高い出来事としては、私の3年先輩の方が自身の出身大学の和室で毎月1度くらいのペース(あくまで体感ではあるが)で寄席を主宰しており、中でもクリスマスイブの当日午前中に開催を決定して14時頃には演者が7名ほど集まって何食わぬ顔で寄席を開催した1件は10年近く経った今でも現役生に伝説として語られていると聞いている。
先に述べた「2人会」というものに、私が主催の片割れとして声がかかっていたのは、3月の頃であったと記憶している。コンセプトは、大学の垣根を越えて同期の親睦を深めるのが目的であり、色物(漫才)の例外を除けば各大学から1名ずつ勧誘をしていたそうである。そして交通の便の良い立地であった青山キャンパスが開催地として白羽の矢が立つと共に演者として私が選ばれたのである。
寄席の名前は「俺達寄席」。なお私自身は共同主催であった自覚は実際のところ殆どなく、また後にシリーズとして開催される事になるなどとは露ほどにも思っていなかった。
日程調整やそれに伴う出演辞退などの問題もあったが、私の出番についての件がかなり大きな問題であったかもしれない。最初に話を持ち掛けられた際は、主催の2人で漫才を行おうと提案されていたのだが、如何せん漫才についてはノウハウもまるでなかった(この辺はサークルの色の違いに起因する側面もあるが)事で内容の変更をさせてしまったのである。私は落語をやる事になったが、どちらにせよ下手ではあり。良くも悪くも濃いキャラクターとして当時の関東学生落語の方々で名前が知れ渡る結果となった、、そうである。
個人的には課題が多く残ったものの、元の目標であった「同期の親睦を深める」といった点では、寄席の後の打ち上げも含めて結果的に大成功となり、10年近くが経過した今となっても人生でも屈指の良き思い出である。

2年生の5月に行われた俺達寄席の余韻が冷めない6月半ば頃、私は平日には相も変わらず実験のレポートに追われて営業時間いっぱいまで図書室に入り浸る生活を送っていた。
ある日、営業時間が過ぎた図書室を追い出されて大学の最寄り駅となる淵野辺駅へ歩いていた時であった。道中、黒塗りで細長い、いかにも高級そうな車の中から声をかけられた。
車の窓を開けて現れたのは、いかにも痩せぎすの壮年男性であった。彼の話によると「腕時計の押し売り?のノルマを達成できずに在庫を抱えてしまっており、このまま持ち帰ると会社から処分が下る。ここで出会ったのも何かの縁、1つで良いから内密に持ち帰って欲しい」との事であった。わざわざ時計のカタログ(後の展開を考えると偽造の可能性もある)を見せながら、本来は100万円ほどの価格で取引している旨を伝えながら、半ば押し付けてきたのである。
ここで男の要求は終わらず、「この後仕事の接待があり、銀座でネーチャンと呑む。時計の対価と言っては何だが口座から下ろしてでもくれないか」との事であった。『淵野辺から銀座への移動時間を考えると最低でも到着は23時以降であり接待の時間にしては遅すぎる』等、冷静に考えると不自然な点が多い状況ではあったのだが、当時の私は焦らされていた事も手伝って判断のできる状態ではなく、そのまま手持ちであった7,000円(口座からは下ろさなかった)を渡してしまった後、男と別れたのである。
電車の中で冷静になった私は、定期圏内の途中の駅で改札を出て近くの交番に駆け寄って一連の出来事を話した。交番に居た警官2名によると、私が疑念を抱いた通り時計は「明らかにブランドの高級品ではない」そうであった。また警察の立場として「経緯はともあれ現物として腕時計が残されている以上、詐欺としての立件は難しい」「本件は社会勉強の受講料と思って諦めた方が良い」との事であった。
当時の私はかなり悔しさが募っていたのだが、後に腕時計に書かれていた名前(ブランド名?)から調べてみると、件の腕時計の実際の相場価格はおよそ2,500円であり、被害額としてはおよそ4,500円と、大学生の遭う詐欺の被害額としては決して高額とは言えない価格である。落語をやる上で、冒頭に自己紹介がてら身の上話を行う「マクラ」として鉄板エピソードとなるにはそう時間を要さなかったのは言うまでもない。後に俺達寄席を共催した落語サークルの同期に注意喚起の目的で長々とメールに文章として書き下ろしたのは、また別の話。

先に述べている通り、実験科目の単位を取得するためにはレポートを作成する必要があり、これには毎週4~5時間程度が費やされる。大学生活に慣れてくると、レポートの作成に取り組むタイミングや場所に関してある程度は決まった「ルーティン」のようなものが自然と形成されてくるのである。
まず1年次に課されていた実験科目は理工学部全体で共通であり、中でも化学科の所掌である科目のレポートは1部の構成が手書きでA4の用紙に20枚前後のものであった。これが2年次になると、学科の科目になる事に伴って作成方法も変わり、ワープロソフトを用いて電子データによる作成が認められるようになるのである(というより、実験中にグラフ等を作成する関係もあるため実質的にPC必須)。このため、レポート作成に求められる環境が異なるのである。化学のレポートには知識が必要となるため紙媒体の文献を取り寄せるのが必須であったのに対して、電気工学のレポートは基本的に一部の原理を除けば演算や表・グラフの作成がメインとなるため、データを保存したUSBをPCルームに持参すればレポートは作成できるのである。
そのような事情の元、2年次以降は平日に淵野辺、土曜に渋谷にある青山キャンパスに赴きレポートの作成をして午後に部活動という活動をする週が大半を占めていた。稀に残件があって日曜日にもPCルームに赴くケースがあったりもしたが。
そして、いざPCルームに居る時でも単純にレポートだけに取り組んでいた訳でもなかった。大学のPCルームうち語学関連の講義に用いるために良質なヘッドセットが常備されている部屋も存在しており(感染症対策の求められる現在においては知る所には無いが、当時はそのような教室はさほど多くなかったと記憶している)、手ではレポートを作成しつつも耳ではYoutubeで楽曲を視聴していたのである。この頃はYoutubeの中で規制がさほど厳しくなかったのか、公式のチャンネルが提供しているMVだけではなく許可を得ていないと思しき動画も散見されていた。
主に聴いていたのは、高校時代に軽音楽の仲間内で演奏が流行っていた「オフスプリング」「9mm Parablem Vallet」のような曲と、00年代のポップスが中心であった。かつて通っていた学習塾のロビーで、リラクゼーション用途を想定したオルゴールVer. とピアノアレンジVer. のCDがローテーションで流されており、これを契機に「Mr. Children」「コブクロ」「平井堅」「SMAP」「福山雅治」「いきものがかり」等のアーティストに関心があった。
中でも思い出に残っているのは、塾でもオルゴールVer. をよく聴いていた「365日/Mr. Children」であり、初めて視聴した時は楽曲の素晴らしさに聞き惚れ、気付いたら(レポートを作成中にも関わらず)感涙してしまっていたのである。この経験が元で音楽への愛に目覚め、後の人生に大きく影響を与える事となる。

生誕10000日を迎えました。その8

落語研究会の活動の一環としては、学生のアマチュア落語家による大会が開催されているのである。参加の条件として「非プロ」「現役の学生」である以外は課されない、いわゆる「全国大会」は夏に「てんしき杯」、冬に「策伝大賞」がそれぞれ行われていた。落語研究会としては、これらの大会で優秀な成績を修めることを目標に自身の落語を極めていく趣きが強かったのである。それぞれ予選にエントリー可能な人数は毎年240名程度であるのに対し、決勝ラウンドに進出できるのは毎回10名ほどになるので「大会で決勝進出」が一つのステータスの基準として挙げられる事が多く、卒業後にプロへ転向する場合や就職に際して履歴書に記載するにも相応しい栄誉と言えるのである。
当時の青学落研は、策伝大賞において2年連続で決勝進出者を輩出するなど名門と目されていた。その機運もあり、初挑戦となる1年生も含む部員の大半がノリノリでエントリーを行った。お世辞にも落語が評価されているとは言い難い私もその一人である。
予選へのエントリーにあたり書類(とビデオ)による選考があるのだが、私の参戦した回の一つ前までは半ば形骸化しており落選者が10名も居ないとされていた。選考結果は審査の終わった順に郵送にて通知されるのだが、サークル単位でのエントリー人数が多かった大学を中心に落選の通知が相次いでいた。私はかなり遅れての通知であったゆえ評判を聞いていただけに全く疑問なく落選する事になった。
それでも先輩の勧めもあり、時々顔を見ていた他大学の同期との交流も含めて策伝の開催される岐阜は長良川へ十数名で赴いた。
策伝の予選は土曜日にほぼ1日かけて会場を4つに分けて行われ、その夜に決勝進出者が発表される。翌日の日曜日に決勝戦がホールにて行われて夕方に優勝者(及び2位と3位)が決まるのが大会のルールであった。
私は予選の日を、青学の先輩や多大の同期を中心に観覧をして回った。とりわけ、この年のてんしき杯で準優勝となった4年生の先輩は本命の1人とされており会場も超満員になっていたのが印象的であった。
もう一つは、同期として一人だけ書類選考を通過した男が居たが、予選での出番が会場のトリ(=最後の演者)であったのである。落語はやや拙いながらも至って綺麗に演じていたのだが、途中の扉を叩く所作で効果音を出すために扇子の根元で床を叩く際に、誤って扇子を握り損ねて無音で扉を叩いたのが一番のウケとなっていた件が印象に残っている。
結果としては、青学からは決勝進出者はおらず、発表の会場で多少の交流を経てホテルに入るのだが、ここでも只では眠らないのが学生である。
前の年に決勝に進出しており、同年に決勝進出した青学の先輩と6月頃に2人会(落語の寄席の一種。有志n名が中心となって開く寄席を「n人会」と呼ぶ)を開いた人物がいた。この方が学生落語界隈では著名な「ボードゲーム」の愛好家であり、先の2人会の打ち上げでも合間に行ったボードゲームに私も参加させて頂いた。私自身も後年にボードゲームを趣味の一つとするのだが、この方の影響が強かった事は疑いの余地がない。ともあれ、この夜もA.M. 3時頃までボードゲームで遊んでいたのである。
翌日、午前中は岐阜の付近を青学の部員一同で散策をして午後は決勝を観覧した。大会が無事に終わると、参加者一同が合同(大まかには東西で別れて開催だったと記憶している)の打ち上げを行うのが慣例であったのだが、ここでまさかの事態が発覚する。
私の携帯が行方不明となっていたのである。
打ち上げの終わり際に、先輩により参加者へアナウンスがなされた。すると、キャンパスが近く親交の深かった桜美林大学の同期が各種トラブルの対応に慣れており、発見まで携帯への不正アクセス防止のために携帯の会社への通知等を手配してくれた。心底焦ってはいたが、それでもある程度の心の平穏が保たれたのは彼の存在が大きかったのは間違いない。先輩方も、初対面であった人さえも慰めをして頂けた事で有難かったのと同時に、ある種の悪名を広げる結果となった情けない一件でもあった。因みに携帯電話は、決勝の会場で座った座席の下に置き去りになっていたのを翌日に回収し、事の経緯は全てSNSによる周知される処となった。

そのような日々を過ごし、勉強の方では一部の科目に苦戦しつつも気づいてみたら1年はすぐに過ぎていた。とりわけ時間を多大に割く必要に迫られたのは、実験科目のレポート課題であろう。
高校までも実験の授業があれば翌週までに振り返りのレポートを提出する必要はあったのだが、大まかな項目を除けば特に決まった形式などもなく、基本的には「出せばよし」のようなものであった。(その上でも筆者は3回のうち1回くらいの頻度で未提出だったりもするのだが、、)
これが大学になってからは勝手が大きく変わるのである。まず提出するレポートに使用する用紙のサイズにも指定があり、高校の頃に使用していたものが使えなくなったのである。一応用紙は大学の購買にて販売しているが、当時の私は「学校の課題に必要な道具は知識と筆記用具以外は提供される」という感覚があり、課題へ向けて物品を調達する(ために金銭を授受する)という感性がなかったのである。この辺りの風習に慣れるにも多少ながら時間は要したのである。また実験の内容が高校や並行して講義で学習している内容から理論が導けるような原理ではなかった関係で、原理について記述するにも複数の参考文献を要する等の理由で、大学の図書館で毎週2時間は最低でも過ごしていたりする。それでも学部で共通の科目ではあるので全体でも週のうち4~5時間程度には収まっていたのだが。
話を元に戻すが、1年時における私の成績は、全ての科目で合格を修めた。世に言う「フル単」である。講義科目ではギリギリ及第点(評価C)のものも少なからず見受けられたが、最終的な成績としてはGPA(青山学院大学で実装されている制度。理論上の値は0以上4以下だが、4を獲得するには履修する全部の科目で評価点90点以上が必要となるため現実には中々厳しい)2.53とまずまずの成績となった。後に聞いたところによると、学年の数値は2.4程度であり順位としても平均より少し上であったらしい。中高の頃は学年最下位に始まり一度も半分より上の順位になれなかった私としては色々考えさせられる。
ともあれ、不安要素も多かったものの結果としては何ら問題なく2年生に進級する事ができたのである。
個人の成績を表示するポータルサイトでは年度末の発表を踏まえて「〇年生に進級できましたので、これをご連絡致します。」のような文言が最後に1行で添えられていたりするが、理工学部は選択必修等の科目が不足していても自動的に3年生まで学年は上がる判定となるようなので参考にはあまりならなかったりする。

学生生活が2年目になると、当然ではあるが後輩ができる事になる。それに伴い、部活動においては、自らが勧誘を行う側に回る事になる。
私は大学全体でメインとなるキャンパスと拠点が離れていた事や当時の現役学生としては珍しくスマホユーザでなかった(コミュニケーションツールとしてLINEが十二分に定着する前後の過渡期の頃である)等の理由もあり勧誘活動を担当してはおらず、補助的に事務系の作業を肩代わりする程度であった。
落語研究会としては、部に興味のある新入生と懇談会を行う事があったが、会場へ向かうまでの集合場所で「ペットボトルの方ですよね?」と声をかけられる。この人物は高校時代の1つ後輩であり、捨てられたペットボトルのキャップを外して分別する私の姿を見かけて顔を覚えていたのである。…「ペットボトルの方」とは?? などと考えて思考がおいつかなかった事が今も鮮明に思い出せる。彼は高校時代には学校行事にも積極的に取り組むタイプで学年でも中心人物といえる男であった。
勧誘を目的としたイベントの中でも印象に残っているのは、複数の大学に籍を置くメタル系バンドサークルが合同で開催した「HELL YEAH FES」(通称「ヘルフェス」)である。各サークルから一組ずつ、計20近くにも及ぶバンドが集結して丸1日演奏を行うもので新入生であれば無料で入場できるライブイベントであった。今なお多くのバンドが愛してやまない、渋谷は宇田川町のライブハウス「asia」にて、それは執り行われた。
高校の頃は欧米のバンドが好きな同級生が多く、柏苑祭でも8人くらいで列を成してヘドバンを行う事がある程であった。そんな同級生達の強い影響でライブハウスに赴くことが何度かあり、モッシュやツーステはそれなりに心得があった。
少し話がそれたが、この日に起こった事に話を戻そう。私はこの時点では演奏のサークルに所属しておらず、新入生としてではないものの実質的には部外者としての参戦であった。ところが、ライブハウスに入って程なくして高校時代の1年後輩の男の姿が見えた。彼は高校時代より、その独特な佇まいや行動で学内でも絶大な存在感を誇っていた。このライブで出会った先輩との2ショットがSNSに投稿されると、その先輩自身の拡散力も手伝ってか1日のうちに4桁にも及ぶ閲覧数に至ったりもした。また私は彼に目撃されたことで、後に落語研究会の活動で先の後輩経由で『あのキレの良いのっぽは誰だ!?』との評判を耳にする事となった。
そしてもう一人、高校時代に同級生であった男の姿もあった。話によると、1年遅れる形ながらも同じ青山学院大学に入学して、浪人の際に通っていた予備校で趣味のあった友人と2人で本イベントに参加したという。彼らともまた、在学中に時折ながら趣味の話に講じる仲になっていくのである。
かくして、この日の経験を基に本格的に音楽への熱が焚き付けられた私は、新たに趣味の種類が増えて学生生活がより豊かになっていくのである。
当時の青学には「メタルサークル」たる同好会が1つのみ存在しており、このイベントを経て多くの入会者が居た。私は主にキャンパスの都合により入会こそやや有耶無耶になった感が否めないが、所属者との関係は悪くなく、時折ライブに呼ばれる事もあった。

落語の方では、大学2年生になる直前にある話を持ち掛けられていた。それは、各大学の落語サークルの同期を集めた有志の寄席の合同主催者としての勧誘。依頼主は、策伝での携帯紛失事件で諸々の手続きを手配してくれた同期であった。
 

生誕10000日を迎えました。その7

ひとまず、大学生活が始まった時点での人間関係を振り返っておこうと考える。
まず、高校から青山学院大学の理工学部に現役生として進学をしたのが私自身を含めて6名存在していた。このうち2名は大学からの指定校推薦による進学である。
(話が前後してしまうが、高校の同期は学校の「進学校」へ向けた前衛的とも言える指導の賜物と言うべきか、法政大学からの推薦については志願者不在につき辞退となった。要求される高校での成績がやや高めに設定されていた事も一因かもしれないが)
当時の東京都市大学付属高校の卒業アルバムには、卒業時に任意の人物に寄せ書きのようにメッセージを貰えるページがあるのだが、既に青学の指定校推薦を貰っていた同期が「大学に入ってもよろしくな!」というメッセージをしたためていた。これ自体は卒業式の日に起こっているが、私が青学からの補欠合格連絡を受けたのはこれより後になるので、母親は「予知能力の持ち主?」などと驚いていたりする。大学に入って百人一首のサークルに入るきっかけとなったその人でもあり、やはり彼は何かを持っているような予感がする。現在でも連絡を取っている数少ない親友の一人である。
もう一人の推薦組は、硬式野球でのエースであった人物である(余談だが、高3時に都市大学付属高は甲子園の予選会で3回戦に進出した。ここで本選進出の本命の一角である帝京高校に0-18で敗れたものの当時の最高成績を更新している)。高校生活の後半で同じクラスで席も近かったので、既にある程度は打ち解けていた関係であった。
一般受験を経て青学へ進学したうちの一人は、学科まで自分と同じ電気・電子工学科になった。また別の一人は物理・数理学科に行ったのだが、数理系の科目に秀でている関係で頻繁にノートを借りたり定理を教えてもらったりする事になる。

先に述べた「数学リメディアル」において、たまたま近くの席に座っていた(当時の私は視力の矯正が行われていなかった事もあり、特に指定が無ければ前列に着座していた)2人と連絡先の交換を行ったりもした。

大学1年次の講義は大別すると学科の専門科目(私は電気系)・学部で共通の科目(数理系や実技演習)・外国語関連(英語、第二外国語)・大学の定めた教養科目(大項目4つあり、卒業には各1つずつ必須。受講に抽選を要する)の4つに大別されるが、学科科目は同じ学科の同期と、数理系科目はクラス分けの関係で推薦組2名と同じコマであった。また第二外国語の選択とTOEICの成績が「硬式野球のエース」と同じであったり抽選に当たった教養科目もたまたま同じ教室でノートを借りる彼と受講したり。。と、偶然が重なった結果として、1年時に履修した講義の全てで高校からの同期が一緒に受講している事態となった。
ちなみに、電気科の特性はというと、「必修科目が多い」の一言に尽きるだろう。当時の理工学部での年間履修単位数の上限52(教員免許の獲得を目指す「教職課程」を申請した場合は+8。これは大学全体で共通)に対して39単位が必修で埋められており、数理系の演習科目と物理学を各前期と後期・2つ教養科目を入れた時点で実質「フル単」の状態であった(厳密には51単位だが)。
理工学部の中では、これとよく対比になるのは化学・生命科学科であろう。こちらでは選択必修の科目が非常に多いのだが、ある程度の広さを持つ分野ごとに必要な単位数が決まっていて(シラバス上では「〇の10単位中8単位必須」「▽の8単位中6単位必須」のような記載がされていた)、事実上は必修のような扱いの科目も非常に多かったようである。それでも履修登録では科目を入力する必要があるのだが。

ところで、私が落語研究会(以下、原則『落研』と記す)に招かれた「本当の理由」についてだが、これには一人の人物が大きく関わっていた事が明らかとなった。
当時、落研に所属していた「ゴリさん」という先輩がいたのだが、この人がそれは大層「狂人」と関わるのが好きな人間であった。この先輩は4年生であったのだが、後に聞いたところによると留年をして大学の在籍は5年目になるとの事であった。この方を含む当時落研に所属していた部員の方が狂人を愛しつつ真人間へと矯正する機関として「落語研究会」の方針を定めていたのである。
そして、私自身が落研の一員として学生生活を全うする事を誓ったのもゴリさんの存在が大きいのである。
私は前述の通り在学中には多数のサークルに所属をしていたのだが、その全てが上手くいった訳ではないのである。別のサークルの集まりで部員との関係が悪くなった後に落研の部室へ赴いた事があったのだが、その時は部室にゴリさんが一人で(記憶が正しければ)漫画を読んでいらしていた。私はサークルでの出来事を話した訳ではないのだが、何かを悟ってか悟らずしてか、私の面倒な絡みにも全く嫌な顔をせずに応じて、ただ話を聞きつつも大学生活や趣味の話をしていただけたのである。時間にしては20分程度だったと記憶しているが、この事によって当時の私は心が救われたのである。この出来事を通じて、私は「誰かの心を救える」存在になる事について考えるようになり、後の生き様に大きく影響を与える事になる。また人間関係の嗜好も、法とモラルに触れない程度の狂気を好んでいくようになっていった。

この頃のデジタルゲームは、世間的な流行から見ればやや低迷期に入っていた、のかは不明だが、ニンテンドーDSの一通りのソフトを遊んだ後は携帯電話からブラウザサイトに接続する形態をとるゲームが流行した。端を発するのは恐らくdocomoの「iモード」だが、広く知られるのは「モバゲー」だろうか。
私の家では専ら「GREE」のゲームが流行っていた。母親が「ハコニワ」を始めていた事がきっかけで、私も「釣りスタ」「ドリランド」をプレイしていた。
ドリランドは用意された幾つかの地層?で化石を発掘するゲーム、釣りスタは用意された幾つかの釣り堀で魚を釣るゲームであり、どちらも凡その最終目的は図鑑を埋める事であった。この頃になると、既にインターネットへのアクセス環境が一般家庭にもおよそ整備されるようになった関係もあって攻略情報が出回っている状態であった(そもそもゲームのサイトから攻略情報の掲示板へのリンクが設けられていた。俗に言う「公式」である)。そんな訳で、攻略情報をある程度は集めた上で、ゲームでは金策をして目的の魚や化石へ向けた装備を整えて、、というルーティンを時間の許す限り行っていた。非公式のサイトで編み出されたバグ技に頼ったりブラウザの有効期限が切れてアイテムがロストしたのも一つの思い出となっている。

高校の頃には泊まりのイベントには必ず教員が引率していたが、大学になると学生のみでサークルの合宿が行えるようになった。
私の初めての学生のみで行う泊まりのイベントは、かるた愛好会の夏合宿であった。当時は在籍者の殆どが1年生であり、参加者は11名の同期のみであった。当時は初めてのイベントとあって、練習試合と食事以外はスケジュールが殆ど決まっていなかったのである。大学生故の体力もあり、夜にはなかなか眠らなかった事を思い出す。ここで編み出された遊びとしては、創設者の兼任していたサークルの呑み会でのゲーム「パニパニゲーム」(リズムに合わせて、指名された人が振り付けに従い次の指名をする。両隣の人は別の振り付けを行う必要があり、振りを間違えたプレイヤーがペナルティ)を改良した「ほうれんそうゲーム」(両隣の人が「にんじん」と言ってグータッチの振り付け、指名された人から遠いプレイヤーは「ほうれんそう」と言いつつ両手を広げて床を叩く)であった。入浴の後にこのゲームを行ったのだが、事情を知らない部外者から見ると宗教にしか見えないと専らの噂であった。既に床に伏している合宿の参加者の部屋の周りで「ほうれんそう」を連呼しながら壁を叩くシーンはとても面白かった(眠っていた本人は傍迷惑だろうが)記憶が鮮明に残っている。