生誕10000日を迎えました。その12
3年前期の成績が出た。
これまでの2年間はなんだかんだ不合格となった単位は一つも無かったのだが、ある一つの科目でついに単位を落としてしまっていたのである。
当該の科目は、評価を付けるために期末試験のみならず中間課題が課されていた。この課題を、当時の私はどういうわけか(実際には他の科目で課されていた課題等との兼ね合いである可能性もあるが定かではない)当日になっても課題が半分も終わっていない状況であったのだ。そして普段は授業態度の良いと思われる私が、ひとつ前の授業中に無関係の課題を行うという暴挙に出たのである。
中間課題は電子データによる提出であり、一つ前の授業はヘッドホンを使用する都合でPCにログインをするのであった。このPCで先生の目を盗みつつ提出用ファイルの編集を行っていたのだが、先生が不意打ちで生徒のPC画面を教室前面の大型スクリーンに映してしまったのである。クラスメイトの失笑を買ったのは言うまでもない。
前にも述べているが、大学3年時の夏には2日以上の外泊を伴う旅行が5回にも及んでいた。その中で一番初めであり8月の初頭に訪れたのは、小倉百人一首の発祥の地とされているらしい「近江神宮」であった。
赴いたイベントの名前は「全日本大学かるた選手権」。日本全国に存在する競技かるたのサークルが年に1度のみ集結する大会である。青山学院大学のかるた愛好会としては設立3年目にして初参加となった。
基本的には試合がサークル同士の対抗戦としての趣きが強く、当時は1日目に団体戦・2日目に個人戦が行われる形であった。そして特筆すべきは、大会の参加者であれば近江神宮の大部屋で就寝することが可能である点であろう。大会が行われる2日間の間と前後で合わせて3泊を近江神宮の広間で枕を並べられるのである(男女で分かれており、女子の宿泊場所は不明である)。
青学かるた愛好会のメンバーは、1期生にして当時3年生であったのは私一人であり、2期生にあたる2年生が6名と1年生が1人の8名であった。2年生の何名かが既に段位を獲得していたため団体戦は2年生を中心とした編成としていた関係で私の出る幕はないのであった。個人戦は、学年ごとのトーナメントとは別に「昇段戦を未経験」という条件のみで出場できる「新人の部」が存在しており、私はそちらへエントリーしていたのである。
東京から滋賀県へは電車で向かうのだが、この旅程がなかなかに距離の長いものであった。往路はメンバー全員が一緒に鈍行でゆっくり向かう算段であったが、まず名古屋まで在来線を複数回に亘って乗り継ぐ必要があり、それなりに体力が消費された事が印象的であった。サークルの仲間が居たので退屈はしなかったが(なお私は通学していたキャンパスが異なっていた関係で、この往路で1年生と初顔合わせであった)。都内の駅を立ったのは午前のそれなりに早めの時刻であったが、目的地に到着したのは夕方5時を回っていた。
到着してからは大会の運営より説明を受けたら、残りは食事、入浴、就寝と「生活」をこなして過ごした記憶しかない。当時の私はニンテンドー3DSのすれちがい通信を起動していたはずなので、その辺りの事は行った記憶があるが。
夜が明けて、団体戦の当日になった。各々のサークルから選出されるチームのメンバーはいわば「(戦力的な意味での)チームの代表」たる面々が名を連ねており、この団体戦での結果がサークルとしての格を表す一つの基準として分かりやすいものとされていた。なおサークル毎のチーム数は基本的には1つずつであるが、慶応大学などサークルの規模が大きい場合等は複数のチームを登録している場合もあった。
初参戦となった青学は、3回戦敗退という結果となった。準決勝辺りまで進出するチームとなれば、選手としては公式戦で最高リーグとなるA級の選手のみで構成されるチームばかりとなっており、いつか青学もそれほどの強豪になれるのだろうかと感慨に耽った記憶がある。
決勝戦のカードは大阪大学vs法政大学、これを制したのは大阪大学であった。個人的には、大阪大学は落語でも全国大会の優勝常連校(当時は毎年2名ずつしか居ない)であり、法政大学は頻繁に学園祭へ足を運んだ体感で課外活動に注力できる環境が特に整っている印象を持っていた。本大会の結果についても素人ながら腑に落ちた感覚を覚えたのである。
大会が終わって、食事(親睦会のような合同形式だった記憶もあるが定かではない)を終えた後、大広間で大勢が過ごす自由時間。大学生にとっては、ここが本番とも言えようか。この時間はなぜか私は慶応のメンバー10名ほどの中に混じり、パーティーゲームの「ワードバスケット」をプレイしていた。サークル内でもどうやら強さ弱さがネタにされたりハンデを課したりしているようであったが、私は外様でありながら勝ち抜けを果たせる3人の中に安定して入ることができたのである。プレイ中の記憶としては、最後に残った手札が「ゆ」であった時に直前で「そ」を差し込まれた咄嗟に「ソバージュ」を即座に捻りだして勝ち抜いた一件であろう。後にボードゲームを趣味の一つとして何百もの非電源系ゲームを何千回と行う私であるが、10年近く経過してもなお未だに忘れられない私の半生上でも歴史的な試合の一つである。
再び夜が明けて、個人戦の当日。この日は私も登録された選手として参戦したのだが、新人戦の部においては公式の段位に影響を及ぼす事が無い(他の学年毎のトーナメントでも同様であったかもしれないが)のであった。後に悟った事ではあるが、対戦を通じて親睦を図る事をメインに考えた方が有益であったと感じている。トーナメントの準々決勝戦あたりまで進出できる実力があろうものなら話は変わるが。
初戦の相手は、名前から関西方面と見える大学の1年生で、取り札を自身の取り手の側に置くなど(失礼ながら)あまり公式戦に慣れていない様子の女子であった。試合結果は20枚近くの差をつけて勝利。2回戦目は、昨日の団体戦でサークルとしての強さを身に染みて知っていた大阪大学の1年生女子であった。こちらは終始スキのない攻めを魅せられた結果、16枚の差を付けられて敗退となった。
自身の試合が早く終わった事で、この機会に自分と同学年の選手の姿を拝見しようと、私の足は3年生の部の会場へ向かっていた。既に決勝戦の暗記時間が始まっていたのだが、その暗記をしている最中の選手の姿がやや異様であった。試合中には自身が座るであろう座布団の少し後方に立ち、右腕を軽く振りながら時折その右手で膝を叩く姿は、今も鮮明に思い出せる。最終的にはこちらの選手が優勝の栄冠を手にして3回生の部は幕を下ろすのであった。
2日間に及ぶ試合が終わると、会場として使用した部屋の掃除を学生で請け負う時間があった。初参加の青学も名乗りを挙げたところ、関東と関西それぞれ1団体ずつのグループで1箇所を清掃する手はずとなっていた。
青学のペアとなったサークルは「京都産業大学」の出身。相手側には私と同期となる3回生が2名(共にB級の実力者)おり、初参加の感想を和気藹々と語った思い出がある。関西勢としては初めて面識を持った相手となったが、彼らとは近くこれまた青学が初出場となる10月頃開催の職域かるた会にて、対戦相手として再会を果たすことになる。
その後、全体での懇親会を兼ねた夕食(バイキング形式に近いものだった記憶)。私は青学のメンバー同士とも会話しつつ、先の新人戦での初戦の相手と再会した。聞くところによると、所属する会の発足そのものが「今年であった」ようで、随時メンバーを募集しているようであった。当時に連載していた「ちはやふる」から競技かるたの世界に入ったそうであり、曲がりなりにも「創立メンバー」の先輩として些末ながらアドバイスを贈った思い出がある。
これまでの2年間はなんだかんだ不合格となった単位は一つも無かったのだが、ある一つの科目でついに単位を落としてしまっていたのである。
当該の科目は、評価を付けるために期末試験のみならず中間課題が課されていた。この課題を、当時の私はどういうわけか(実際には他の科目で課されていた課題等との兼ね合いである可能性もあるが定かではない)当日になっても課題が半分も終わっていない状況であったのだ。そして普段は授業態度の良いと思われる私が、ひとつ前の授業中に無関係の課題を行うという暴挙に出たのである。
中間課題は電子データによる提出であり、一つ前の授業はヘッドホンを使用する都合でPCにログインをするのであった。このPCで先生の目を盗みつつ提出用ファイルの編集を行っていたのだが、先生が不意打ちで生徒のPC画面を教室前面の大型スクリーンに映してしまったのである。クラスメイトの失笑を買ったのは言うまでもない。
前にも述べているが、大学3年時の夏には2日以上の外泊を伴う旅行が5回にも及んでいた。その中で一番初めであり8月の初頭に訪れたのは、小倉百人一首の発祥の地とされているらしい「近江神宮」であった。
赴いたイベントの名前は「全日本大学かるた選手権」。日本全国に存在する競技かるたのサークルが年に1度のみ集結する大会である。青山学院大学のかるた愛好会としては設立3年目にして初参加となった。
基本的には試合がサークル同士の対抗戦としての趣きが強く、当時は1日目に団体戦・2日目に個人戦が行われる形であった。そして特筆すべきは、大会の参加者であれば近江神宮の大部屋で就寝することが可能である点であろう。大会が行われる2日間の間と前後で合わせて3泊を近江神宮の広間で枕を並べられるのである(男女で分かれており、女子の宿泊場所は不明である)。
青学かるた愛好会のメンバーは、1期生にして当時3年生であったのは私一人であり、2期生にあたる2年生が6名と1年生が1人の8名であった。2年生の何名かが既に段位を獲得していたため団体戦は2年生を中心とした編成としていた関係で私の出る幕はないのであった。個人戦は、学年ごとのトーナメントとは別に「昇段戦を未経験」という条件のみで出場できる「新人の部」が存在しており、私はそちらへエントリーしていたのである。
東京から滋賀県へは電車で向かうのだが、この旅程がなかなかに距離の長いものであった。往路はメンバー全員が一緒に鈍行でゆっくり向かう算段であったが、まず名古屋まで在来線を複数回に亘って乗り継ぐ必要があり、それなりに体力が消費された事が印象的であった。サークルの仲間が居たので退屈はしなかったが(なお私は通学していたキャンパスが異なっていた関係で、この往路で1年生と初顔合わせであった)。都内の駅を立ったのは午前のそれなりに早めの時刻であったが、目的地に到着したのは夕方5時を回っていた。
到着してからは大会の運営より説明を受けたら、残りは食事、入浴、就寝と「生活」をこなして過ごした記憶しかない。当時の私はニンテンドー3DSのすれちがい通信を起動していたはずなので、その辺りの事は行った記憶があるが。
夜が明けて、団体戦の当日になった。各々のサークルから選出されるチームのメンバーはいわば「(戦力的な意味での)チームの代表」たる面々が名を連ねており、この団体戦での結果がサークルとしての格を表す一つの基準として分かりやすいものとされていた。なおサークル毎のチーム数は基本的には1つずつであるが、慶応大学などサークルの規模が大きい場合等は複数のチームを登録している場合もあった。
初参戦となった青学は、3回戦敗退という結果となった。準決勝辺りまで進出するチームとなれば、選手としては公式戦で最高リーグとなるA級の選手のみで構成されるチームばかりとなっており、いつか青学もそれほどの強豪になれるのだろうかと感慨に耽った記憶がある。
決勝戦のカードは大阪大学vs法政大学、これを制したのは大阪大学であった。個人的には、大阪大学は落語でも全国大会の優勝常連校(当時は毎年2名ずつしか居ない)であり、法政大学は頻繁に学園祭へ足を運んだ体感で課外活動に注力できる環境が特に整っている印象を持っていた。本大会の結果についても素人ながら腑に落ちた感覚を覚えたのである。
大会が終わって、食事(親睦会のような合同形式だった記憶もあるが定かではない)を終えた後、大広間で大勢が過ごす自由時間。大学生にとっては、ここが本番とも言えようか。この時間はなぜか私は慶応のメンバー10名ほどの中に混じり、パーティーゲームの「ワードバスケット」をプレイしていた。サークル内でもどうやら強さ弱さがネタにされたりハンデを課したりしているようであったが、私は外様でありながら勝ち抜けを果たせる3人の中に安定して入ることができたのである。プレイ中の記憶としては、最後に残った手札が「ゆ」であった時に直前で「そ」を差し込まれた咄嗟に「ソバージュ」を即座に捻りだして勝ち抜いた一件であろう。後にボードゲームを趣味の一つとして何百もの非電源系ゲームを何千回と行う私であるが、10年近く経過してもなお未だに忘れられない私の半生上でも歴史的な試合の一つである。
再び夜が明けて、個人戦の当日。この日は私も登録された選手として参戦したのだが、新人戦の部においては公式の段位に影響を及ぼす事が無い(他の学年毎のトーナメントでも同様であったかもしれないが)のであった。後に悟った事ではあるが、対戦を通じて親睦を図る事をメインに考えた方が有益であったと感じている。トーナメントの準々決勝戦あたりまで進出できる実力があろうものなら話は変わるが。
初戦の相手は、名前から関西方面と見える大学の1年生で、取り札を自身の取り手の側に置くなど(失礼ながら)あまり公式戦に慣れていない様子の女子であった。試合結果は20枚近くの差をつけて勝利。2回戦目は、昨日の団体戦でサークルとしての強さを身に染みて知っていた大阪大学の1年生女子であった。こちらは終始スキのない攻めを魅せられた結果、16枚の差を付けられて敗退となった。
自身の試合が早く終わった事で、この機会に自分と同学年の選手の姿を拝見しようと、私の足は3年生の部の会場へ向かっていた。既に決勝戦の暗記時間が始まっていたのだが、その暗記をしている最中の選手の姿がやや異様であった。試合中には自身が座るであろう座布団の少し後方に立ち、右腕を軽く振りながら時折その右手で膝を叩く姿は、今も鮮明に思い出せる。最終的にはこちらの選手が優勝の栄冠を手にして3回生の部は幕を下ろすのであった。
2日間に及ぶ試合が終わると、会場として使用した部屋の掃除を学生で請け負う時間があった。初参加の青学も名乗りを挙げたところ、関東と関西それぞれ1団体ずつのグループで1箇所を清掃する手はずとなっていた。
青学のペアとなったサークルは「京都産業大学」の出身。相手側には私と同期となる3回生が2名(共にB級の実力者)おり、初参加の感想を和気藹々と語った思い出がある。関西勢としては初めて面識を持った相手となったが、彼らとは近くこれまた青学が初出場となる10月頃開催の職域かるた会にて、対戦相手として再会を果たすことになる。
その後、全体での懇親会を兼ねた夕食(バイキング形式に近いものだった記憶)。私は青学のメンバー同士とも会話しつつ、先の新人戦での初戦の相手と再会した。聞くところによると、所属する会の発足そのものが「今年であった」ようで、随時メンバーを募集しているようであった。当時に連載していた「ちはやふる」から競技かるたの世界に入ったそうであり、曲がりなりにも「創立メンバー」の先輩として些末ながらアドバイスを贈った思い出がある。