生誕10000日を迎えました。その11
一方で、これまでの大学生活においては「バイト」たる行為を行っていないのであるが、2年後期から3年前期まではスケジュールの空白が多く見受けられたのを契機とみて、学内にフリーペーパーとして置かれていたタウンワークを落研の部室に持ち込んで熟読したのである。当時の先輩や同期と相談をしつつ、日雇いの人材派遣系のバイトに情報を登録する形となった。
そもそもこの時点ではバイト、というか勤労という行為に対するイメージが固まっておらず「やろうと思えば誰でも大体できる」というような感覚であった。最終的に登録する以外のバイトとしては居酒屋のフロア担当者の募集についても面接を申し込んでいたが、2カ月の短期では募集をしていない旨を告げられて面接を中断された事は記憶に残っている。ちなみに競技かるたの練習試合の合間で休憩した20分間の出来事である。
基本的には人手を必要とする「軽作業」(力仕事も稀に含む)が前提とされており、臨海の地に位置する輸送業のセンターでの荷物の点検や地域の振り分け、大きなイベントの設営・撤収作業に伴う搬入出の作業がメインであった。原則として1日限りの契約ではあるが、前者のような運搬ルートに関わるものは事業所の営業日であれば毎日、人員の募集がされているため私自身も複数回にわたって赴いており、その場で恐らく似たような境遇の人物が数名ほど顔見知りになるような事もあった。後者のケースは単発であり、どちらかと言えば日当の給料は高めに設定されている傾向があった。また私が行ったのは1度だけだが中古PCの周辺機器を端子から合わせて梱包・発送する業務もあった。
物品の搬入にあたって製品や建物を傷つけるのは当然ご法度になるので厳重な注意を受ける事はある意味で印象的であったが、他方では仕事を行う上で守るべき責務についての社会勉強となった側面もあった。前述したPCの発送の際は責任者の方とマンツーマンで業務を行い、缶コーヒーを奢られながら世間話に講じたのも一つの思い出である。なお電車や専用シャトルバスの遅延等で集合時間に間に合わずに叱られる事も何度かあったりする。
最も印象的な出来事としては、発送時のバーコードリーダーによる検品作業を行った際に恐らく別の派遣会社からの人物が居たのだが、当時に人気のアイドルグループであった乃木坂46のメンバーに風貌が似ていたのである。休憩時間にお手洗いの場所を質問されたのだが、まさか日雇いのバイトをしている訳がないとは思われるので別人であろうが印象には強く残っている。
落語のサークルにおいては4年生を追い出す会として「卒業寄席」が冬休み中2~3月に行われる。出演者は当該サークルの卒業生・同期であるが卒業をしない人物やそれらの人物と親交の深い者が中心となり、お客様として他サークルの友達が来場するのが基本的な慣例である。
3月のある日、私は成城学園前の近くにキャンパスを構える成城大学の落語サークルの卒業寄席に赴いた。2年先輩の代は青山のサークル活動においてもお世話になっている関係で同期の当時4年生の先輩と一緒であった。
この寄席そのものは大きな問題もなく終わって先輩とも駅で別れたのだが、立地が徒歩10分程度のところにある我が母校、東京都市大学付属中高の様子をついでに見にいったのである。すると偶然、前に述べた同窓会の幹事を務めた2名に加えて年配の方1名が校門から出てくるシーンに出くわしたのである。
そのままなし崩し的に話の輪に加わり、駅付近のやや高級な喫茶店にて聞いたところによると、高校の同窓会には「理事会」たる運営組織が存在しており、少し前の「成人を祝う会」にて幹事を務めた2名は同期会の開催にあたり理事会より設営の援助をされていたというのである。共にいらした年配の方は私より44年前に高校を卒業した大先輩にあたる理事のメンバーであった。
それ以後はこの方と連絡を取り合いつつ、オブザーバーとして理事会へ出席をする事となるのだが、当時の理事会はメンバーの大半が還暦を超えており、全員がそれぞれの分野で相応の成功を修めている方々であった事もあり話の内容もあまり理解ができていなかったのが実際のところであった。ところが理事会の出席には3,000円の手当が付けられる形であったため、拘束時間が最大2時間から計算して前述の日雇いバイトより時給換算が高額となる事を見込んで出席を続けていたのである。
それから時を待たずして高校60期の3名が理事会へ加入と相成った。加入自体は翌年度の開始時点で内定していたが、受理されたのは5月の総会の時であったと記憶している。理事会の定例会は隔月でしか行われていなかった筈なので特別な集まりがあったのであろうか? あまり記憶が定かではない。この出来事こそが後の人生を大幅に変える事となった一因である事は間違いないのであるが。
3年生になった。
これまでの2年間で「必修」にあたる学科の講義科目は全ての単位を修得していたので、基本的には評価の高く付けられる傾向のある教養コア科目を選んで履修する方針であった。とは言いつつ、講義に関しての情報がなかなか入手できなかったので手当たり次第に空きコマを青スタで埋めていく形になっていたのだが。また学科の実験科目は2年次と同様に火曜と木曜の2回で毎週レポートの提出が必須である形式であった。2年後期のスタイルが1年通して行われる事になる。
講義の中では英語の技能を高めるものは3年生になったら必修ではなくなり、また技能の種類を選んで受講をする事が可能となった。更に週の中におけるコマ数が2年次までは2科目(講師は別の人)2コマであったのだが3年次では1科目1コマとなった。
そんな折、英語の教材としては大学の在籍と同時にe-learningのアカウントが個別に割り当てられていた事が明らかになった。というのも、1年次から教材の進捗が科目の成績に含まれてはいたものの、本格的に講師から講義中に積極的な声掛けがあったのは2年になって以後の事であったためである。
3年次になって時間に比較的余裕ができると、より深く取り組みを試みるようになっていた。というのも、このe-learningの中では教材に取り組んだ数を「マイル」という数値で加算されるシステムが内蔵されており、その数値がトップページに表示されるのである。また用意された教材がセクション毎に纏められたページを見つけた私は、講義の合間にPCルームに立ち寄って教材を進める習慣ができていた。結果、講義において指定される教材のみをクリアした他の同級生と比較すると、私が集めたマイルの数値は7倍ほどにもなっていたのである。
また、ここで新たに一人の人物にフォーカスを当てたいと考える。この男は私の1年後輩として文学部に在籍していたのだが、特筆すべきはそのサークルの在籍数。1年次での彼の在籍数はなんと7つにも及んでいる。その内訳は漫画研究会や茶道部といった文科系が多くを占めるがミッション系サークルも所属していたりもした。そして落語研究会、かるた愛好会の2箇所で私と共通のサークルに在籍した形である。
彼は小柄で人懐っこく天然な性格と言え、人によって評価が分かれる傾向にある人柄に見えていた。落語研究会では持ち前のユーモアと生真面目さや高い熱量で先輩から愛され、かるた愛好会では癒し系として男女問わず屈託なく接されていた(かるた愛好会は文系側の青山キャンパスは彼らの代を起点として人数が多くなっていたため近しい先輩が殆ど居なかったのである)
私は基本的には落語も百人一首も腕前では最終的に彼には追い越されてしまう形となっていくが、彼視点では複数のサークルに渡って共通で関わる人物が1人しか居ない事もあったとの事であり比較的ノリを一緒に行ったりする機会は多かった。一方のサークルのノリを他方へ持ち込んで「それ俺しか分からんやろ!」等とツッコむのが多かった記憶がある。
3年次の夏休みには、サークルの合宿や全国大会の遠征が多く予定されており、なんと5回にわたり2泊以上の滞在を予定されていたのである。そして、そのうち3回は上述の後輩が一緒に宿泊をする形となっていた。その中でも印象的な宿泊について述べていきたいと考えている。
そもそもこの時点ではバイト、というか勤労という行為に対するイメージが固まっておらず「やろうと思えば誰でも大体できる」というような感覚であった。最終的に登録する以外のバイトとしては居酒屋のフロア担当者の募集についても面接を申し込んでいたが、2カ月の短期では募集をしていない旨を告げられて面接を中断された事は記憶に残っている。ちなみに競技かるたの練習試合の合間で休憩した20分間の出来事である。
基本的には人手を必要とする「軽作業」(力仕事も稀に含む)が前提とされており、臨海の地に位置する輸送業のセンターでの荷物の点検や地域の振り分け、大きなイベントの設営・撤収作業に伴う搬入出の作業がメインであった。原則として1日限りの契約ではあるが、前者のような運搬ルートに関わるものは事業所の営業日であれば毎日、人員の募集がされているため私自身も複数回にわたって赴いており、その場で恐らく似たような境遇の人物が数名ほど顔見知りになるような事もあった。後者のケースは単発であり、どちらかと言えば日当の給料は高めに設定されている傾向があった。また私が行ったのは1度だけだが中古PCの周辺機器を端子から合わせて梱包・発送する業務もあった。
物品の搬入にあたって製品や建物を傷つけるのは当然ご法度になるので厳重な注意を受ける事はある意味で印象的であったが、他方では仕事を行う上で守るべき責務についての社会勉強となった側面もあった。前述したPCの発送の際は責任者の方とマンツーマンで業務を行い、缶コーヒーを奢られながら世間話に講じたのも一つの思い出である。なお電車や専用シャトルバスの遅延等で集合時間に間に合わずに叱られる事も何度かあったりする。
最も印象的な出来事としては、発送時のバーコードリーダーによる検品作業を行った際に恐らく別の派遣会社からの人物が居たのだが、当時に人気のアイドルグループであった乃木坂46のメンバーに風貌が似ていたのである。休憩時間にお手洗いの場所を質問されたのだが、まさか日雇いのバイトをしている訳がないとは思われるので別人であろうが印象には強く残っている。
落語のサークルにおいては4年生を追い出す会として「卒業寄席」が冬休み中2~3月に行われる。出演者は当該サークルの卒業生・同期であるが卒業をしない人物やそれらの人物と親交の深い者が中心となり、お客様として他サークルの友達が来場するのが基本的な慣例である。
3月のある日、私は成城学園前の近くにキャンパスを構える成城大学の落語サークルの卒業寄席に赴いた。2年先輩の代は青山のサークル活動においてもお世話になっている関係で同期の当時4年生の先輩と一緒であった。
この寄席そのものは大きな問題もなく終わって先輩とも駅で別れたのだが、立地が徒歩10分程度のところにある我が母校、東京都市大学付属中高の様子をついでに見にいったのである。すると偶然、前に述べた同窓会の幹事を務めた2名に加えて年配の方1名が校門から出てくるシーンに出くわしたのである。
そのままなし崩し的に話の輪に加わり、駅付近のやや高級な喫茶店にて聞いたところによると、高校の同窓会には「理事会」たる運営組織が存在しており、少し前の「成人を祝う会」にて幹事を務めた2名は同期会の開催にあたり理事会より設営の援助をされていたというのである。共にいらした年配の方は私より44年前に高校を卒業した大先輩にあたる理事のメンバーであった。
それ以後はこの方と連絡を取り合いつつ、オブザーバーとして理事会へ出席をする事となるのだが、当時の理事会はメンバーの大半が還暦を超えており、全員がそれぞれの分野で相応の成功を修めている方々であった事もあり話の内容もあまり理解ができていなかったのが実際のところであった。ところが理事会の出席には3,000円の手当が付けられる形であったため、拘束時間が最大2時間から計算して前述の日雇いバイトより時給換算が高額となる事を見込んで出席を続けていたのである。
それから時を待たずして高校60期の3名が理事会へ加入と相成った。加入自体は翌年度の開始時点で内定していたが、受理されたのは5月の総会の時であったと記憶している。理事会の定例会は隔月でしか行われていなかった筈なので特別な集まりがあったのであろうか? あまり記憶が定かではない。この出来事こそが後の人生を大幅に変える事となった一因である事は間違いないのであるが。
3年生になった。
これまでの2年間で「必修」にあたる学科の講義科目は全ての単位を修得していたので、基本的には評価の高く付けられる傾向のある教養コア科目を選んで履修する方針であった。とは言いつつ、講義に関しての情報がなかなか入手できなかったので手当たり次第に空きコマを青スタで埋めていく形になっていたのだが。また学科の実験科目は2年次と同様に火曜と木曜の2回で毎週レポートの提出が必須である形式であった。2年後期のスタイルが1年通して行われる事になる。
講義の中では英語の技能を高めるものは3年生になったら必修ではなくなり、また技能の種類を選んで受講をする事が可能となった。更に週の中におけるコマ数が2年次までは2科目(講師は別の人)2コマであったのだが3年次では1科目1コマとなった。
そんな折、英語の教材としては大学の在籍と同時にe-learningのアカウントが個別に割り当てられていた事が明らかになった。というのも、1年次から教材の進捗が科目の成績に含まれてはいたものの、本格的に講師から講義中に積極的な声掛けがあったのは2年になって以後の事であったためである。
3年次になって時間に比較的余裕ができると、より深く取り組みを試みるようになっていた。というのも、このe-learningの中では教材に取り組んだ数を「マイル」という数値で加算されるシステムが内蔵されており、その数値がトップページに表示されるのである。また用意された教材がセクション毎に纏められたページを見つけた私は、講義の合間にPCルームに立ち寄って教材を進める習慣ができていた。結果、講義において指定される教材のみをクリアした他の同級生と比較すると、私が集めたマイルの数値は7倍ほどにもなっていたのである。
また、ここで新たに一人の人物にフォーカスを当てたいと考える。この男は私の1年後輩として文学部に在籍していたのだが、特筆すべきはそのサークルの在籍数。1年次での彼の在籍数はなんと7つにも及んでいる。その内訳は漫画研究会や茶道部といった文科系が多くを占めるがミッション系サークルも所属していたりもした。そして落語研究会、かるた愛好会の2箇所で私と共通のサークルに在籍した形である。
彼は小柄で人懐っこく天然な性格と言え、人によって評価が分かれる傾向にある人柄に見えていた。落語研究会では持ち前のユーモアと生真面目さや高い熱量で先輩から愛され、かるた愛好会では癒し系として男女問わず屈託なく接されていた(かるた愛好会は文系側の青山キャンパスは彼らの代を起点として人数が多くなっていたため近しい先輩が殆ど居なかったのである)
私は基本的には落語も百人一首も腕前では最終的に彼には追い越されてしまう形となっていくが、彼視点では複数のサークルに渡って共通で関わる人物が1人しか居ない事もあったとの事であり比較的ノリを一緒に行ったりする機会は多かった。一方のサークルのノリを他方へ持ち込んで「それ俺しか分からんやろ!」等とツッコむのが多かった記憶がある。
3年次の夏休みには、サークルの合宿や全国大会の遠征が多く予定されており、なんと5回にわたり2泊以上の滞在を予定されていたのである。そして、そのうち3回は上述の後輩が一緒に宿泊をする形となっていた。その中でも印象的な宿泊について述べていきたいと考えている。