同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その13

3日目の打ち上げが終わり、最後の夜を迎えた。
大学生とあっては、宿泊イベントではすぐには眠らないのが常というもの。この日は昨夜と同じくボードゲームの他に当時に青学かるた愛好会でも流行っていた「人狼」を行っていた。青学と、当時キャンパスが近くて親交の深かった國學院大學のメンバーが合同で円を囲んでいた中に、今回のイベントで交友を持った方が少数いた格好である。
当時の私は人狼の腕がからっきしであり、当時のサークル内でのキャラクターも相まって占い師の役職を引いても弁明ができないまま初日の昼に吊られる(投票最多でゲームから除外される)事もあったりした。ゲームの腕とは関係のない所ではあるが、役職は霊媒師を頻繁に引くことについてもネタにされていた記憶がある。
それなりの回数を行った中では、一つ前のラウンドに後輩の参加者が処刑されている事に私が気づかずに話かけた点が最後の夜で残った人狼を処刑台にかける決め手となった一件が印象的に残っている。
私の記憶では、この一夜に9ラウンドの人狼ゲームを行い、そのまま一睡もしなかったのが一つの思い出となっている。
結局眠らないまま、翌朝を迎えて朝食を頂いたあと、付近を少し散策したのち3泊4日を過ごした滋賀を離れたのである。繰り返すが前夜は一睡もしていないのであるが、意外にも私を含むメンバーの多数が帰りの電車でも眠らずにトランプに興じていて眠っていなかったのである。なお近江に向かった青学メンバーの8名のうち、4名が延泊して兵庫の方面に観光をしたらしいのは、また別の話。

2つ目の印象的な外泊イベントは落語の学生選手権として知られる「てんしき杯」開催に伴う岐阜への宿泊であろう。
私にとっては1年時に策伝大賞へ赴いて以来、学生生活で2度目の「落語の学生選手権への関与」となる。1年時の策伝へはエントリーをして書類選考に落選していたが、この時は披露可能な演目数の問題があってエントリーをせずに会場へ赴いている。
てんしき杯のシステムは大まかには策伝大賞と似ているのだが、予選への参加は選考でなくエントリーの先着順を採用している。そこから4会場に振り分けられ、出場の枠を超えたエントリーはキャンセル待ちのような形となる。それぞれの会場では、4名の審査員が点数を持ち、1位に3点・2位に2点・3位に1点を(恐らく1名ずつに)与えて合計点を競う形式である。会場毎に出場者は30名のため、点数を貰う事自体が極めて栄誉とされる。決勝には各会場での得点上位2名ずつと、その8名を除いて高い得点が得られた2名の合計10名で決勝を争う形である。決勝戦は策伝と異なり、1 on 1のトーナメントを繰り返す形で行われる。対戦の度に高座を演じる関係上、エントリーの時点で4つの演目が必要とされる。
学生生活の半ばを過ぎた3年次にもなると、同期同士の間でもある程度は実力の有無について評価が大まかに決まっている頃である。優勝の栄冠についても「下馬評」のようなものが存在しており、風の便りで私の耳にもそれなりに届いていたりするのである。
私の同期である関東の3回生のうちでも、有力とされていた2人がいた。彼らは2年次頃から共に切磋琢磨し、2年次の11月頃には「2人会」を行うほど親密な仲であった。そしてこの片方が、一つ前の策伝で決勝へ進出している。その2人が、この大会では偶然にも同じ会場に振り分けられ、出番順も続きになっていたのである。私を含めて彼らと近い関係の者が一斉に会場へ押し寄せたのは言うまでもない。
この時の昼食は、私は何故か日本大学芸術学部の同期・1つ下の後輩と共に外食した。その際に、女子の後輩がスカートを履いていたのだが、ソファに座ると同時にテーブルに足を載せた際に下着がハッキリと見えてしまったのである。要するに「パンモロ」である。他大学の後輩に対して物理的な指導を行ったのは、この時が唯一と記憶している。
夕方頃に、別に出場していた青学の後輩と共に日大文理学部の同期の出番を観た。この男もまた親交があり、正統派ながら独自解釈による編集を的確に行うなど実力者と目されていた。
彼の演目は「平林」。その名を持つ者へ子供がお使いを行うも宛先の名前の漢字が読めなくなり、通りがかった人に教わった読み方が間違っているというストーリー。
彼が演じた時は、途中に入る使いの子供の心情描写にスポットが当てられており、観ている者が引き込まれていくのを感じた。私も、間違いの読みの一つである「いちはちじゅうのもーくもく」を復唱する際に彼が行っていた振り付けがあまりにハマっていたのを目の当たりにして、彼の決勝進出を半ば確信した記憶がある。
そうして一日目の予選を終えたのち、夜には決勝進出者の発表が行われた。関西勢は殆ど面識がない一方、関東の参加者はそれなりに知り合いも多く居合わせていた。
決勝に進出するのは10名であった中で、関東勢は3名が含まれていた。その中には、先に述べた日大文理の同期と、午前中に連続で出番を迎えていた2人の同期のうち策伝で決勝に進出していなかった1名がいた。関東勢の同期からは一つ前の策伝で進出した1名と合わせて3名が世に出た形となり、全体的な躍進が始まった事を感じさせた。またもう一人は自分が以前の策伝で知り合い、個人的にお世話になった先輩であった。発表の際には一つ前の座席に座っており、発表の始まる直前に「先輩が通れるように通路を開けておきますね」とおどけたのも印象的な出来事となっている。なお、関西勢の決勝進出者のうち1名は2年ほど前に桜美林での寄席で観客として来場しており、その後の打ち上げで4人でカラオケを行った間柄である。
決勝戦は、関東勢3名のうち2名が一つ目の対戦で敗退。特に日大文理の同期とお世話になった先輩が最初の対戦カードになるなど、苦汁を飲むシーンが多かった。その中で、日大文理の同期は関西で優勝候補の一角とも目されたらしい当時の4回生を準決勝で破るなどの躍進を果たした。
迎えた決勝戦、日大文理の同期の相手は、2年前にも栄冠に輝いていた優勝大本命の人物であった。同期の男は演目に入る前の「マクラ」で「ここまで来る事になるとは思っていなかったのですよ!」と慟哭をしていたのが印象的であった。結果的には敗れて準優勝となったものの、総評でも健闘を称えられるなど実力は界隈全体に広く知られる所となった。
なお、この2泊3日は実質的に弾丸旅行のような形であった。宿泊をする場所についても極めてノープランに等しい状況であり、予選の日は当日たまたま空いていたホテルに飛び込み、決勝の夜は(翌年のてんしき杯を制覇する事になる)後輩とカラオケボックスで過ごす形であった。私の半生史上でも最も多方面に迷惑をかけた外泊イベントの一つとして記憶に残っている。
 

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