生誕10000日を迎えました。その5
ところで、東京都市大学付属高校は大学受験にとてつもなく力を入れるようになっていた。高校1年生の頃から、入学の意欲を高める目的でオープンキャンパスへ行って参加レポートの提出を求められたり、夏休み期間に勉強合宿(参加は任意)が行われていたりもした。通常の授業でも公立では中学3年間で習う内容を2年間でほぼ習いきった上で中学3年以降は演習が多く取り込まれるようになり、高校2年あたりになると実際に過去に入学試験に用いられた問題が演習に用いられる事が日常であった。
私自身は学習合宿に高校2年時に参加をしており、八王子に30名ほどの生徒で5泊6日を過ごした事もあった。寝る前の話は志望大学について、、というわけでもなく、お互いの過去についてだったり、授業の内容(主に難度)についての話が多かった。あとは部屋の照明やら光源となり得るものを全て絶った状態で互いの身体をバスタオルで叩き合って「今の誰だよ!?」なんてじゃれ合ってみたり。なお全くの余談であるが、5泊6日という滞在期間は、10000日間のなかで自身や血縁の者の住居を離れた最長記録となっている。
高校の取り組みもあり、当時の私は精力的に大学のオープンキャンパスに訪れたのだが、文化祭に高校生の時分に参加したのは中央大学(後楽園のキャンパス)であった。そこで興味のあった「音楽サークル」の演奏を見学したのだが、フロアで男女関係なく体当たりでモッシュを仕掛けていた様子が当時男子校の生徒であった私にとっては非常に衝撃的であった。演者の側も女性ボーカルの方が激しく聴衆を煽ってパフォーマンスを行っており、フロアに転がったマイクを私が手早く拾って渡した記憶は今も色褪せていない。なお、学業面では研究室紹介の一環として展示されていたポスターセッションでの「今、氷が熱い!」というキャッチフレーズが印象的であった。
そのような事もあり、(あくまで何となくではあるが)中央大学の理工学部を志望するようになった事で勉強への意識はかなり高まったのである。以前に紹介した学年主任であり元々進路指導室の室長であった先生からは早慶や国公立のような上位の大学も検討するように勧められていたが、私自身の意志としては中央大学への入学を志していた。実際のところ経済的な側面を考慮した場合は国公立大学が優先されるのではあったと思われるが。
そのような日々を過ごし、高校3年生まではそれなりに勉学に励んでいたのだが、12月に受験した統一模試では衝撃的な出来事が起こった。
国語の教科の偏差値で25.1を記録したのである。数万人が受験する中で、下から数えて数百人程度の順位となってしまっていたと言えば分かりやすいであろうか。国語に苦手意識があったのは事実であり、高3時は私立受験コースのため文系科目の授業が無かった事も理由として挙げられるのだが、それでも非常に苦い思い出の一つである事は間違いなく、内心では半ば国公立大学の受験を諦めるきっかけであった。
当時、大学入試の中で行われていたのは「センター試験」。2日に分けて、1日目の土曜日に文系科目と最後に英語を、2日目に理系科目を受講する形であったと記憶している。
試験会場については、在籍高校の単位で複数の高校が同じ会場で受験を行うシステムとなっていたのだが、そのうち1校が東大へ毎年、数十名程度が進学するらしい高校であった。試験の休憩時間で「満点イケそーだわ」のような内容の会話が漏れ聞こえてくるのは少しプレッシャーとなっていたりもした。
また、試験の出来自体とは直接関係ない事ではあるが、1日目の試験を終えて帰宅する際には、誤って荷物を車両の中に置き去りにしてしまう事件も起こしてしまった。試験を終えた同級生が同じ駅から乗車するのだが、電車の扉が閉まりかけていたタイミングで改札をふざけて通過していた友人がおり、早く乗るように促そうとして列車を降りてしまったと同時に列車の扉が閉まってしまった。同乗していた同級生に預かってもらって即日、引き取る事ができた事でなんとか事なきを得たが、総じて試験の時期にはまるで余裕の無かった状態であったと回想される。
試験問題については、例年の傾向から考えると現代文の難易度が高く国語の点数が低い平均点となった。当時時点で歴代最低の平均点と言われていたが、翌年になってさらに更新されたと記憶している。他方で数学については、数1Aと数2Bが科目として用意されているのだが、数1Aが難化して平均点が100点中50点を下回り、数2Bがやや易しめとなった。これらの事を踏まえ、大学入試の全体的な戦略はおおよそ文系志望者が弱気、理系志望者が強気の志願をする傾向にあったらしい事を風の便りで知った。
そんな中、私自身はセンター試験の総得点は「565 / 900 点」(自己採点によるものであり、実際の結果は通知されない)。事前に想定していた得点は下回っているどころか、一つの基準と考えていた「東京工業大学の2次試験の受験資格」として設定された点数(通例では600点程度と言われていたが、実際の試験を踏まえて573点に引き下げられていたと記憶している)にも満たない結果となってしまった。当時の私は内心では自信をほぼ喪失してしまい、この時点で内心では浪人を覚悟していた。
学校や両親と相談して決めた大まかな受験の方針は「MARCH以上の大学に入学できなければ浪人」。センター試験の結果を用いずに個別の試験に赴いた私立大学は「東京理科大」「青山学院」「上智」「中央」「明治」「早稲田」の6校(およそ受験日程順。後半3つは日程が連続であった記憶あり)。志望校の選考基準は大学のブランドの他にも親から「実家から通える距離」である事を厳命されていた事が影響している。
私は理系を志望していたため数学と理科の受験をするのだが、問題の難易度は明治の数学が確実に満点を目指さないと絶望的とされるほど易しく、青山学院の数学も個人としては70点後半くらいの点数は確実に獲得できたとの手応えを感じるほどに易しく設定されていた記憶がある。他方で理科大や早稲田の数学は部分点を積極的に獲得するように立ち回る必要のある難しい内容であったが、当時の私にはそのような器用な芸当は出来なかった。中央大学のキャンパスへ向かう道中では、「理科大(の入試)で見覚えのある顔がいたわ~」という声が漏れ聞こえた事も鮮明に覚えている。私を指している発言であるかは不明だが。
結論から言えば、全ての試験に不合格の判定を頂戴した。
それでも、浪人を避けるためには私は止まる訳にはいかなかった。私立の個別試験の後に国公立の2次試験の日程が控えていたのだ。私は、前述のセンター試験の結果と通学の所要時間を中心に検討した結果として、2月下旬の前期日程に「東京農工大学」、3月中旬の後期日程に「電気通信大学」の受験をする事になった。
試験問題はというと、農工大での問題は特に取り立てて難しくも易しくもなく印象にはあまり残っていなかったが、受験を終えた後の手応えが良くなかった記憶がある。
前期日程の試験の合否は後期日程の前に通知されるのだが、結果は不合格となった。
電通大の問題も受験時の試験問題については思い出せる事は何もないのだが、前期日程の結果を踏まえた上で受験の要否が決められる影響が大きく、試験会場の教室の半分くらいが空席であった記憶がある。受験のシステム上、受験費は払っているはずではあるが。
また受験勉強の際に見つけた試験の過去問においては英語の物語文の内容が「余命の短い母親の見舞いのための有休を上司に断られた会社員が設備の欠陥を利用して上司を見殺しにする」という、あまりにも試験問題としては似つかわしくない短編サスペンスが印象的であった。後年にセンター試験等で見られる「人参に羽の生えた生物のイラスト」のような直接的なインパクトではないが、なかなか集中力を奪われる問題であろうかと考えた記憶がある。
後期日程の受験を終えて失意に暮れつつ帰宅をしたところ、母親にはあるものを見せられる。それは、青山学院大学の補欠合格の通知であった。中学受験の時といい、なかなかストレートには入学できないものである。形はどうあれ浪人を回避できた事になった当時の私はとても安堵したことは今も鮮明に思い出せる。
そして後期日程の不合格通知が届き、最終的な進路は青山学院大学に確定する事になった。
ところで応募した学科についてだが、漠然とプログラミングを生業としたいという感覚があった関係で、殆どの大学を「情報科学科」「情報工学科」のような名称の学科を志望していた。その例外は青山学院大学の電気電子工学科と明治大学の応用数理学科の2つ(通信工学との複合などもあるが、ここでは除外)であったが、後者の応用数理学科は当時に新設されて学生を初めて募集する年度、つまり1期生の募集であったため前向きな志願であったが、電気電子工学科は大学の募集要項を見た際に情報工学系の学科が見つけられず、分野の近そうな電気電子工学科へ願書を提出するというやや受動的な志願であった。この件が後にある事件を引き起こす事になるのだが、それはまた別のお話。
(なかがき)
今回、これまでの半生を振り返る腹積もりで筆を執っているのだが、当初は生誕10000日にちなんで総字数10000程度を想定していたのだが、自身の感情が動いた瞬間をできる限り文章として残そうとした結果、ここまでで15000字程度の量となってしまっている。
恐ろしい事に、ここが全体の「折り返し」である。この連載が終わるのは、一体いつになるのであろうか、、?
私自身は学習合宿に高校2年時に参加をしており、八王子に30名ほどの生徒で5泊6日を過ごした事もあった。寝る前の話は志望大学について、、というわけでもなく、お互いの過去についてだったり、授業の内容(主に難度)についての話が多かった。あとは部屋の照明やら光源となり得るものを全て絶った状態で互いの身体をバスタオルで叩き合って「今の誰だよ!?」なんてじゃれ合ってみたり。なお全くの余談であるが、5泊6日という滞在期間は、10000日間のなかで自身や血縁の者の住居を離れた最長記録となっている。
高校の取り組みもあり、当時の私は精力的に大学のオープンキャンパスに訪れたのだが、文化祭に高校生の時分に参加したのは中央大学(後楽園のキャンパス)であった。そこで興味のあった「音楽サークル」の演奏を見学したのだが、フロアで男女関係なく体当たりでモッシュを仕掛けていた様子が当時男子校の生徒であった私にとっては非常に衝撃的であった。演者の側も女性ボーカルの方が激しく聴衆を煽ってパフォーマンスを行っており、フロアに転がったマイクを私が手早く拾って渡した記憶は今も色褪せていない。なお、学業面では研究室紹介の一環として展示されていたポスターセッションでの「今、氷が熱い!」というキャッチフレーズが印象的であった。
そのような事もあり、(あくまで何となくではあるが)中央大学の理工学部を志望するようになった事で勉強への意識はかなり高まったのである。以前に紹介した学年主任であり元々進路指導室の室長であった先生からは早慶や国公立のような上位の大学も検討するように勧められていたが、私自身の意志としては中央大学への入学を志していた。実際のところ経済的な側面を考慮した場合は国公立大学が優先されるのではあったと思われるが。
そのような日々を過ごし、高校3年生まではそれなりに勉学に励んでいたのだが、12月に受験した統一模試では衝撃的な出来事が起こった。
国語の教科の偏差値で25.1を記録したのである。数万人が受験する中で、下から数えて数百人程度の順位となってしまっていたと言えば分かりやすいであろうか。国語に苦手意識があったのは事実であり、高3時は私立受験コースのため文系科目の授業が無かった事も理由として挙げられるのだが、それでも非常に苦い思い出の一つである事は間違いなく、内心では半ば国公立大学の受験を諦めるきっかけであった。
当時、大学入試の中で行われていたのは「センター試験」。2日に分けて、1日目の土曜日に文系科目と最後に英語を、2日目に理系科目を受講する形であったと記憶している。
試験会場については、在籍高校の単位で複数の高校が同じ会場で受験を行うシステムとなっていたのだが、そのうち1校が東大へ毎年、数十名程度が進学するらしい高校であった。試験の休憩時間で「満点イケそーだわ」のような内容の会話が漏れ聞こえてくるのは少しプレッシャーとなっていたりもした。
また、試験の出来自体とは直接関係ない事ではあるが、1日目の試験を終えて帰宅する際には、誤って荷物を車両の中に置き去りにしてしまう事件も起こしてしまった。試験を終えた同級生が同じ駅から乗車するのだが、電車の扉が閉まりかけていたタイミングで改札をふざけて通過していた友人がおり、早く乗るように促そうとして列車を降りてしまったと同時に列車の扉が閉まってしまった。同乗していた同級生に預かってもらって即日、引き取る事ができた事でなんとか事なきを得たが、総じて試験の時期にはまるで余裕の無かった状態であったと回想される。
試験問題については、例年の傾向から考えると現代文の難易度が高く国語の点数が低い平均点となった。当時時点で歴代最低の平均点と言われていたが、翌年になってさらに更新されたと記憶している。他方で数学については、数1Aと数2Bが科目として用意されているのだが、数1Aが難化して平均点が100点中50点を下回り、数2Bがやや易しめとなった。これらの事を踏まえ、大学入試の全体的な戦略はおおよそ文系志望者が弱気、理系志望者が強気の志願をする傾向にあったらしい事を風の便りで知った。
そんな中、私自身はセンター試験の総得点は「565 / 900 点」(自己採点によるものであり、実際の結果は通知されない)。事前に想定していた得点は下回っているどころか、一つの基準と考えていた「東京工業大学の2次試験の受験資格」として設定された点数(通例では600点程度と言われていたが、実際の試験を踏まえて573点に引き下げられていたと記憶している)にも満たない結果となってしまった。当時の私は内心では自信をほぼ喪失してしまい、この時点で内心では浪人を覚悟していた。
学校や両親と相談して決めた大まかな受験の方針は「MARCH以上の大学に入学できなければ浪人」。センター試験の結果を用いずに個別の試験に赴いた私立大学は「東京理科大」「青山学院」「上智」「中央」「明治」「早稲田」の6校(およそ受験日程順。後半3つは日程が連続であった記憶あり)。志望校の選考基準は大学のブランドの他にも親から「実家から通える距離」である事を厳命されていた事が影響している。
私は理系を志望していたため数学と理科の受験をするのだが、問題の難易度は明治の数学が確実に満点を目指さないと絶望的とされるほど易しく、青山学院の数学も個人としては70点後半くらいの点数は確実に獲得できたとの手応えを感じるほどに易しく設定されていた記憶がある。他方で理科大や早稲田の数学は部分点を積極的に獲得するように立ち回る必要のある難しい内容であったが、当時の私にはそのような器用な芸当は出来なかった。中央大学のキャンパスへ向かう道中では、「理科大(の入試)で見覚えのある顔がいたわ~」という声が漏れ聞こえた事も鮮明に覚えている。私を指している発言であるかは不明だが。
結論から言えば、全ての試験に不合格の判定を頂戴した。
それでも、浪人を避けるためには私は止まる訳にはいかなかった。私立の個別試験の後に国公立の2次試験の日程が控えていたのだ。私は、前述のセンター試験の結果と通学の所要時間を中心に検討した結果として、2月下旬の前期日程に「東京農工大学」、3月中旬の後期日程に「電気通信大学」の受験をする事になった。
試験問題はというと、農工大での問題は特に取り立てて難しくも易しくもなく印象にはあまり残っていなかったが、受験を終えた後の手応えが良くなかった記憶がある。
前期日程の試験の合否は後期日程の前に通知されるのだが、結果は不合格となった。
電通大の問題も受験時の試験問題については思い出せる事は何もないのだが、前期日程の結果を踏まえた上で受験の要否が決められる影響が大きく、試験会場の教室の半分くらいが空席であった記憶がある。受験のシステム上、受験費は払っているはずではあるが。
また受験勉強の際に見つけた試験の過去問においては英語の物語文の内容が「余命の短い母親の見舞いのための有休を上司に断られた会社員が設備の欠陥を利用して上司を見殺しにする」という、あまりにも試験問題としては似つかわしくない短編サスペンスが印象的であった。後年にセンター試験等で見られる「人参に羽の生えた生物のイラスト」のような直接的なインパクトではないが、なかなか集中力を奪われる問題であろうかと考えた記憶がある。
後期日程の受験を終えて失意に暮れつつ帰宅をしたところ、母親にはあるものを見せられる。それは、青山学院大学の補欠合格の通知であった。中学受験の時といい、なかなかストレートには入学できないものである。形はどうあれ浪人を回避できた事になった当時の私はとても安堵したことは今も鮮明に思い出せる。
そして後期日程の不合格通知が届き、最終的な進路は青山学院大学に確定する事になった。
ところで応募した学科についてだが、漠然とプログラミングを生業としたいという感覚があった関係で、殆どの大学を「情報科学科」「情報工学科」のような名称の学科を志望していた。その例外は青山学院大学の電気電子工学科と明治大学の応用数理学科の2つ(通信工学との複合などもあるが、ここでは除外)であったが、後者の応用数理学科は当時に新設されて学生を初めて募集する年度、つまり1期生の募集であったため前向きな志願であったが、電気電子工学科は大学の募集要項を見た際に情報工学系の学科が見つけられず、分野の近そうな電気電子工学科へ願書を提出するというやや受動的な志願であった。この件が後にある事件を引き起こす事になるのだが、それはまた別のお話。
(なかがき)
今回、これまでの半生を振り返る腹積もりで筆を執っているのだが、当初は生誕10000日にちなんで総字数10000程度を想定していたのだが、自身の感情が動いた瞬間をできる限り文章として残そうとした結果、ここまでで15000字程度の量となってしまっている。
恐ろしい事に、ここが全体の「折り返し」である。この連載が終わるのは、一体いつになるのであろうか、、?