生誕10000日を迎えました。その4
高校一年生の終わり、3月14日からの4日間。予定では、世界大戦について学ぶ研修旅行として九州へ赴く、はずであったのだが、、、。
2011年3月9日。この日は、高1時の学年末試験の答案が返却される予定の日であった。当時の私は東急の電車を通学路として用いていたが、途中の乗り換え駅でホームの移動で階段を踏み外し、足首の辺りに激痛が残っていたものの処置は特にせずに登校、答案を受け取ってそのまま帰宅した。
2011年3月10日。収まらない足首の違和感。整形外科へ赴くと、診察結果は「靭帯損傷」。生来、不治の病を幾らか抱える身ではあるが、ここで新たに生涯癒える事のない傷を抱える事となってしまうのであった。
2011年3月11日。恐らくこの文章を読んでいる方には改めて説明をするまでもないとは考えているが、、14時頃に東日本大震災が発生した。当時の国内情勢は大幅に混乱に陥る事となり、本高校でも遅れて学年末試験を受けていた学年の生徒がそのまま自習していた等の理由で校舎に残っていたら図らずも帰宅難民となり、校舎の体育館で一夜を過ごしたような話を聞いた。(都市大付属高の校舎にはかなりの量の非常食が保管されているため、その点は問題なかったそうであるが)一方で当の私は、前日の診察での注意もあって自宅で安静にしており、SFCのゲームをプレイしている最中に地震が起こった形である。この事態を受けて、研修旅行は一度中止となってしまった。
高校2年時、私は柏苑祭のクラス委員となった。年に一度の学園祭であるが、委員の仕事は基本的には担当となった箇所の運営における実働部隊のようなものであり、各学年からおおよそ40名程度が集められて幾つかのブロックへ分けられて約4カ月にわたる準備と当日の運営へと臨むのである。私は第一志望を外装ブロックとしていたが、抽選の結果として「宴夜祭」の担当になった。宴夜祭とは、柏苑祭の展示が一通り終わりかけた頃にホールで行われる、要は学園祭の後夜祭にあたるものである。
私は元々、中学1年と2年の時は自身が担当となっていた出展でのシフトをこなしたらいち早く帰路についていたのだが、中学3年の際にふと思い立って宴夜祭を見学して、そのあまりのクオリティに驚いて以来、10年以上にわたり毎年欠かさずに観覧させて頂いている。ライブ形式のステージパフォーマンスなのだが、一夜限りの演舞へ向けて3カ月ほど前から練習を重ね、チームによっては出演を賭けて選抜を行うなども見受けられるなど一介の中高の学園祭としては極めて力の入ったイベントとしての側面が大きかった。オープニングの映像に始まって(本校は当時からCG等の技術が非常に高く、毎年とても見ごたえのある映像が観られる。担当は視聴覚委員だったと記憶している)、吹奏楽部のブラスバンドにより3~4曲の演奏があったのち、流行の楽曲のコピーダンスがめくるめく披露されていく。当時恒例であったのは「サッカー部によるEXILE」「海外のクラブミュージック」「ももクロ」「AKB48」等であった。なお私の在学中は前述したように現役のジャニーズが生徒として在籍していた関係か、ジャニーズ事務所の楽曲は披露されなかった(卒業後は嵐や関ジャニ∞・舞祭組等が披露されている)。また柏苑祭における「Mr. & Ms. コンテスト」の発表も行われていた。
高校2年生とあれば柏苑祭では集大成となる年、可能であれば演舞(バックストリートボーイズ)を行いたかったのだが、前述したオーディションに落選してしまった。一方で委員としての仕事は「上演中に天井にレーザーを当てる」係。聞こえが悪いかもしれないが、実はパフォーマンスを前の正面から間近で鑑賞しつつオーディエンスの熱狂を肌に感じられるいわば「特等席」のような役割であった。無論、パフォーマンスを引き立てつつ演者の視力を奪ってしまわないように調整が必要になる点ではやや難しいのであるが。DJ OZUMAとラグビー部がユニフォームのまま踊る「Gee/少女時代」、当時保健体育を担当していた女性の先生が同級生と一緒に踊ったAKB48が特に印象に残っている。
話が前後するようであるが(今に始まった事でもないが)、高2時の夏休み期間を用いて「震災の爪痕が色濃く残る」東北地方の現状をを体感しよう、との思いを胸に、父親と2人で宮城~岩手を跨ぐ2泊3日の旅行を行った。初日と最終日は慰安旅行とほぼ変わらないのだが、2日目に震災から復興できていないままの地域を闊歩した。商店街もシャッターが目立ち、墓地も墓石が倒れたまま放置されていたり、寺院の中にまで土砂が侵入していたりするなど普段の生活では想像し難い光景の連続であった。そのような状況下で印象的であったのは、なぜか理髪店だけはサインポールを回して営業している点であった。理由は不明だが、飲食店よりも理髪店の方が営業再開を早めていたのである。
この時期に私が精力的に取り組んでいた事の一つに、ニンテンドーDSの「おいでよどうぶつの森」オフライン通信機能を用いたオフライン交流会が挙げられる。
形式としては、2chに交流会専用のスレッドが存在しており、企画と相談を経て、渋谷や池袋等の繁華街を指定して散策をしつつ、アイテム付きの手紙を用意して「すれちがい通信」により交換をするものである。実際に会って話をするわけではない。
このイベント、中学生の頃は親のどちらかに連れていって貰っていたが、高校になると私が一人で出向く事が多くなっていった。とりわけ頻度の高いスポットは池袋のサンシャインシティと水道橋のラクーアであろう。印象的な出来事としては父親と2人で渋谷の109に向かった事もあったりした。場にあまり似つかわしくなかったのは言うまでもない。
このイベントに参加する事で、私はショッピングモールを筆頭にある程度の都内のホットスポットについて詳しくなり、また電車での移動についても抵抗が殆ど無くなった点が後の私自身の方針に大きく影響を与えているように思われる。
前述した通り、東日本大震災のため(当然だが、私が怪我をしたためではなく)研修旅行は中止となっており、当時の学年主任の先生によると私の学年ではそのまま行わない予定であったのだが、高校2年の冬休みに延期という形で敢行される事になった。
研修旅行は3泊4日のうち、初日と最終日は学年全体で現地の方の講話を聴講する一方で、2日目と3日目は予定を班ごとに決められる「自由行動」の時間が大半となっていた
班は生徒が自主的に編成可能であった。私は高校1年次に学年委員長に就任した関係もあり二つ返事で所属する班の班長に就任したが、俗に言う「鉄道ヲタク」のメンバーと資料館巡りをしたいメンバーで意見が合わず、旅程の協議が難航して調整に苦慮したのは一つの思い出となった。
最終的に確定した旅程は、高校1年時の3月に行われる場合の日程に合わせて作られたものであったのだが、延期になった事で曜日が変わっていた件を反映できていなかったのが大きな誤算であった。実際に旅程を練り直す気力もなく決行したのだが、目的地に含まれていた博物館が当該の曜日を定休日としていて入館できなかったのが苦い思い出である。
2011年3月9日。この日は、高1時の学年末試験の答案が返却される予定の日であった。当時の私は東急の電車を通学路として用いていたが、途中の乗り換え駅でホームの移動で階段を踏み外し、足首の辺りに激痛が残っていたものの処置は特にせずに登校、答案を受け取ってそのまま帰宅した。
2011年3月10日。収まらない足首の違和感。整形外科へ赴くと、診察結果は「靭帯損傷」。生来、不治の病を幾らか抱える身ではあるが、ここで新たに生涯癒える事のない傷を抱える事となってしまうのであった。
2011年3月11日。恐らくこの文章を読んでいる方には改めて説明をするまでもないとは考えているが、、14時頃に東日本大震災が発生した。当時の国内情勢は大幅に混乱に陥る事となり、本高校でも遅れて学年末試験を受けていた学年の生徒がそのまま自習していた等の理由で校舎に残っていたら図らずも帰宅難民となり、校舎の体育館で一夜を過ごしたような話を聞いた。(都市大付属高の校舎にはかなりの量の非常食が保管されているため、その点は問題なかったそうであるが)一方で当の私は、前日の診察での注意もあって自宅で安静にしており、SFCのゲームをプレイしている最中に地震が起こった形である。この事態を受けて、研修旅行は一度中止となってしまった。
高校2年時、私は柏苑祭のクラス委員となった。年に一度の学園祭であるが、委員の仕事は基本的には担当となった箇所の運営における実働部隊のようなものであり、各学年からおおよそ40名程度が集められて幾つかのブロックへ分けられて約4カ月にわたる準備と当日の運営へと臨むのである。私は第一志望を外装ブロックとしていたが、抽選の結果として「宴夜祭」の担当になった。宴夜祭とは、柏苑祭の展示が一通り終わりかけた頃にホールで行われる、要は学園祭の後夜祭にあたるものである。
私は元々、中学1年と2年の時は自身が担当となっていた出展でのシフトをこなしたらいち早く帰路についていたのだが、中学3年の際にふと思い立って宴夜祭を見学して、そのあまりのクオリティに驚いて以来、10年以上にわたり毎年欠かさずに観覧させて頂いている。ライブ形式のステージパフォーマンスなのだが、一夜限りの演舞へ向けて3カ月ほど前から練習を重ね、チームによっては出演を賭けて選抜を行うなども見受けられるなど一介の中高の学園祭としては極めて力の入ったイベントとしての側面が大きかった。オープニングの映像に始まって(本校は当時からCG等の技術が非常に高く、毎年とても見ごたえのある映像が観られる。担当は視聴覚委員だったと記憶している)、吹奏楽部のブラスバンドにより3~4曲の演奏があったのち、流行の楽曲のコピーダンスがめくるめく披露されていく。当時恒例であったのは「サッカー部によるEXILE」「海外のクラブミュージック」「ももクロ」「AKB48」等であった。なお私の在学中は前述したように現役のジャニーズが生徒として在籍していた関係か、ジャニーズ事務所の楽曲は披露されなかった(卒業後は嵐や関ジャニ∞・舞祭組等が披露されている)。また柏苑祭における「Mr. & Ms. コンテスト」の発表も行われていた。
高校2年生とあれば柏苑祭では集大成となる年、可能であれば演舞(バックストリートボーイズ)を行いたかったのだが、前述したオーディションに落選してしまった。一方で委員としての仕事は「上演中に天井にレーザーを当てる」係。聞こえが悪いかもしれないが、実はパフォーマンスを前の正面から間近で鑑賞しつつオーディエンスの熱狂を肌に感じられるいわば「特等席」のような役割であった。無論、パフォーマンスを引き立てつつ演者の視力を奪ってしまわないように調整が必要になる点ではやや難しいのであるが。DJ OZUMAとラグビー部がユニフォームのまま踊る「Gee/少女時代」、当時保健体育を担当していた女性の先生が同級生と一緒に踊ったAKB48が特に印象に残っている。
話が前後するようであるが(今に始まった事でもないが)、高2時の夏休み期間を用いて「震災の爪痕が色濃く残る」東北地方の現状をを体感しよう、との思いを胸に、父親と2人で宮城~岩手を跨ぐ2泊3日の旅行を行った。初日と最終日は慰安旅行とほぼ変わらないのだが、2日目に震災から復興できていないままの地域を闊歩した。商店街もシャッターが目立ち、墓地も墓石が倒れたまま放置されていたり、寺院の中にまで土砂が侵入していたりするなど普段の生活では想像し難い光景の連続であった。そのような状況下で印象的であったのは、なぜか理髪店だけはサインポールを回して営業している点であった。理由は不明だが、飲食店よりも理髪店の方が営業再開を早めていたのである。
この時期に私が精力的に取り組んでいた事の一つに、ニンテンドーDSの「おいでよどうぶつの森」オフライン通信機能を用いたオフライン交流会が挙げられる。
形式としては、2chに交流会専用のスレッドが存在しており、企画と相談を経て、渋谷や池袋等の繁華街を指定して散策をしつつ、アイテム付きの手紙を用意して「すれちがい通信」により交換をするものである。実際に会って話をするわけではない。
このイベント、中学生の頃は親のどちらかに連れていって貰っていたが、高校になると私が一人で出向く事が多くなっていった。とりわけ頻度の高いスポットは池袋のサンシャインシティと水道橋のラクーアであろう。印象的な出来事としては父親と2人で渋谷の109に向かった事もあったりした。場にあまり似つかわしくなかったのは言うまでもない。
このイベントに参加する事で、私はショッピングモールを筆頭にある程度の都内のホットスポットについて詳しくなり、また電車での移動についても抵抗が殆ど無くなった点が後の私自身の方針に大きく影響を与えているように思われる。
前述した通り、東日本大震災のため(当然だが、私が怪我をしたためではなく)研修旅行は中止となっており、当時の学年主任の先生によると私の学年ではそのまま行わない予定であったのだが、高校2年の冬休みに延期という形で敢行される事になった。
研修旅行は3泊4日のうち、初日と最終日は学年全体で現地の方の講話を聴講する一方で、2日目と3日目は予定を班ごとに決められる「自由行動」の時間が大半となっていた
班は生徒が自主的に編成可能であった。私は高校1年次に学年委員長に就任した関係もあり二つ返事で所属する班の班長に就任したが、俗に言う「鉄道ヲタク」のメンバーと資料館巡りをしたいメンバーで意見が合わず、旅程の協議が難航して調整に苦慮したのは一つの思い出となった。
最終的に確定した旅程は、高校1年時の3月に行われる場合の日程に合わせて作られたものであったのだが、延期になった事で曜日が変わっていた件を反映できていなかったのが大きな誤算であった。実際に旅程を練り直す気力もなく決行したのだが、目的地に含まれていた博物館が当該の曜日を定休日としていて入館できなかったのが苦い思い出である。