同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その8

落語研究会の活動の一環としては、学生のアマチュア落語家による大会が開催されているのである。参加の条件として「非プロ」「現役の学生」である以外は課されない、いわゆる「全国大会」は夏に「てんしき杯」、冬に「策伝大賞」がそれぞれ行われていた。落語研究会としては、これらの大会で優秀な成績を修めることを目標に自身の落語を極めていく趣きが強かったのである。それぞれ予選にエントリー可能な人数は毎年240名程度であるのに対し、決勝ラウンドに進出できるのは毎回10名ほどになるので「大会で決勝進出」が一つのステータスの基準として挙げられる事が多く、卒業後にプロへ転向する場合や就職に際して履歴書に記載するにも相応しい栄誉と言えるのである。
当時の青学落研は、策伝大賞において2年連続で決勝進出者を輩出するなど名門と目されていた。その機運もあり、初挑戦となる1年生も含む部員の大半がノリノリでエントリーを行った。お世辞にも落語が評価されているとは言い難い私もその一人である。
予選へのエントリーにあたり書類(とビデオ)による選考があるのだが、私の参戦した回の一つ前までは半ば形骸化しており落選者が10名も居ないとされていた。選考結果は審査の終わった順に郵送にて通知されるのだが、サークル単位でのエントリー人数が多かった大学を中心に落選の通知が相次いでいた。私はかなり遅れての通知であったゆえ評判を聞いていただけに全く疑問なく落選する事になった。
それでも先輩の勧めもあり、時々顔を見ていた他大学の同期との交流も含めて策伝の開催される岐阜は長良川へ十数名で赴いた。
策伝の予選は土曜日にほぼ1日かけて会場を4つに分けて行われ、その夜に決勝進出者が発表される。翌日の日曜日に決勝戦がホールにて行われて夕方に優勝者(及び2位と3位)が決まるのが大会のルールであった。
私は予選の日を、青学の先輩や多大の同期を中心に観覧をして回った。とりわけ、この年のてんしき杯で準優勝となった4年生の先輩は本命の1人とされており会場も超満員になっていたのが印象的であった。
もう一つは、同期として一人だけ書類選考を通過した男が居たが、予選での出番が会場のトリ(=最後の演者)であったのである。落語はやや拙いながらも至って綺麗に演じていたのだが、途中の扉を叩く所作で効果音を出すために扇子の根元で床を叩く際に、誤って扇子を握り損ねて無音で扉を叩いたのが一番のウケとなっていた件が印象に残っている。
結果としては、青学からは決勝進出者はおらず、発表の会場で多少の交流を経てホテルに入るのだが、ここでも只では眠らないのが学生である。
前の年に決勝に進出しており、同年に決勝進出した青学の先輩と6月頃に2人会(落語の寄席の一種。有志n名が中心となって開く寄席を「n人会」と呼ぶ)を開いた人物がいた。この方が学生落語界隈では著名な「ボードゲーム」の愛好家であり、先の2人会の打ち上げでも合間に行ったボードゲームに私も参加させて頂いた。私自身も後年にボードゲームを趣味の一つとするのだが、この方の影響が強かった事は疑いの余地がない。ともあれ、この夜もA.M. 3時頃までボードゲームで遊んでいたのである。
翌日、午前中は岐阜の付近を青学の部員一同で散策をして午後は決勝を観覧した。大会が無事に終わると、参加者一同が合同(大まかには東西で別れて開催だったと記憶している)の打ち上げを行うのが慣例であったのだが、ここでまさかの事態が発覚する。
私の携帯が行方不明となっていたのである。
打ち上げの終わり際に、先輩により参加者へアナウンスがなされた。すると、キャンパスが近く親交の深かった桜美林大学の同期が各種トラブルの対応に慣れており、発見まで携帯への不正アクセス防止のために携帯の会社への通知等を手配してくれた。心底焦ってはいたが、それでもある程度の心の平穏が保たれたのは彼の存在が大きかったのは間違いない。先輩方も、初対面であった人さえも慰めをして頂けた事で有難かったのと同時に、ある種の悪名を広げる結果となった情けない一件でもあった。因みに携帯電話は、決勝の会場で座った座席の下に置き去りになっていたのを翌日に回収し、事の経緯は全てSNSによる周知される処となった。

そのような日々を過ごし、勉強の方では一部の科目に苦戦しつつも気づいてみたら1年はすぐに過ぎていた。とりわけ時間を多大に割く必要に迫られたのは、実験科目のレポート課題であろう。
高校までも実験の授業があれば翌週までに振り返りのレポートを提出する必要はあったのだが、大まかな項目を除けば特に決まった形式などもなく、基本的には「出せばよし」のようなものであった。(その上でも筆者は3回のうち1回くらいの頻度で未提出だったりもするのだが、、)
これが大学になってからは勝手が大きく変わるのである。まず提出するレポートに使用する用紙のサイズにも指定があり、高校の頃に使用していたものが使えなくなったのである。一応用紙は大学の購買にて販売しているが、当時の私は「学校の課題に必要な道具は知識と筆記用具以外は提供される」という感覚があり、課題へ向けて物品を調達する(ために金銭を授受する)という感性がなかったのである。この辺りの風習に慣れるにも多少ながら時間は要したのである。また実験の内容が高校や並行して講義で学習している内容から理論が導けるような原理ではなかった関係で、原理について記述するにも複数の参考文献を要する等の理由で、大学の図書館で毎週2時間は最低でも過ごしていたりする。それでも学部で共通の科目ではあるので全体でも週のうち4~5時間程度には収まっていたのだが。
話を元に戻すが、1年時における私の成績は、全ての科目で合格を修めた。世に言う「フル単」である。講義科目ではギリギリ及第点(評価C)のものも少なからず見受けられたが、最終的な成績としてはGPA(青山学院大学で実装されている制度。理論上の値は0以上4以下だが、4を獲得するには履修する全部の科目で評価点90点以上が必要となるため現実には中々厳しい)2.53とまずまずの成績となった。後に聞いたところによると、学年の数値は2.4程度であり順位としても平均より少し上であったらしい。中高の頃は学年最下位に始まり一度も半分より上の順位になれなかった私としては色々考えさせられる。
ともあれ、不安要素も多かったものの結果としては何ら問題なく2年生に進級する事ができたのである。
個人の成績を表示するポータルサイトでは年度末の発表を踏まえて「〇年生に進級できましたので、これをご連絡致します。」のような文言が最後に1行で添えられていたりするが、理工学部は選択必修等の科目が不足していても自動的に3年生まで学年は上がる判定となるようなので参考にはあまりならなかったりする。

学生生活が2年目になると、当然ではあるが後輩ができる事になる。それに伴い、部活動においては、自らが勧誘を行う側に回る事になる。
私は大学全体でメインとなるキャンパスと拠点が離れていた事や当時の現役学生としては珍しくスマホユーザでなかった(コミュニケーションツールとしてLINEが十二分に定着する前後の過渡期の頃である)等の理由もあり勧誘活動を担当してはおらず、補助的に事務系の作業を肩代わりする程度であった。
落語研究会としては、部に興味のある新入生と懇談会を行う事があったが、会場へ向かうまでの集合場所で「ペットボトルの方ですよね?」と声をかけられる。この人物は高校時代の1つ後輩であり、捨てられたペットボトルのキャップを外して分別する私の姿を見かけて顔を覚えていたのである。…「ペットボトルの方」とは?? などと考えて思考がおいつかなかった事が今も鮮明に思い出せる。彼は高校時代には学校行事にも積極的に取り組むタイプで学年でも中心人物といえる男であった。
勧誘を目的としたイベントの中でも印象に残っているのは、複数の大学に籍を置くメタル系バンドサークルが合同で開催した「HELL YEAH FES」(通称「ヘルフェス」)である。各サークルから一組ずつ、計20近くにも及ぶバンドが集結して丸1日演奏を行うもので新入生であれば無料で入場できるライブイベントであった。今なお多くのバンドが愛してやまない、渋谷は宇田川町のライブハウス「asia」にて、それは執り行われた。
高校の頃は欧米のバンドが好きな同級生が多く、柏苑祭でも8人くらいで列を成してヘドバンを行う事がある程であった。そんな同級生達の強い影響でライブハウスに赴くことが何度かあり、モッシュやツーステはそれなりに心得があった。
少し話がそれたが、この日に起こった事に話を戻そう。私はこの時点では演奏のサークルに所属しておらず、新入生としてではないものの実質的には部外者としての参戦であった。ところが、ライブハウスに入って程なくして高校時代の1年後輩の男の姿が見えた。彼は高校時代より、その独特な佇まいや行動で学内でも絶大な存在感を誇っていた。このライブで出会った先輩との2ショットがSNSに投稿されると、その先輩自身の拡散力も手伝ってか1日のうちに4桁にも及ぶ閲覧数に至ったりもした。また私は彼に目撃されたことで、後に落語研究会の活動で先の後輩経由で『あのキレの良いのっぽは誰だ!?』との評判を耳にする事となった。
そしてもう一人、高校時代に同級生であった男の姿もあった。話によると、1年遅れる形ながらも同じ青山学院大学に入学して、浪人の際に通っていた予備校で趣味のあった友人と2人で本イベントに参加したという。彼らともまた、在学中に時折ながら趣味の話に講じる仲になっていくのである。
かくして、この日の経験を基に本格的に音楽への熱が焚き付けられた私は、新たに趣味の種類が増えて学生生活がより豊かになっていくのである。
当時の青学には「メタルサークル」たる同好会が1つのみ存在しており、このイベントを経て多くの入会者が居た。私は主にキャンパスの都合により入会こそやや有耶無耶になった感が否めないが、所属者との関係は悪くなく、時折ライブに呼ばれる事もあった。

落語の方では、大学2年生になる直前にある話を持ち掛けられていた。それは、各大学の落語サークルの同期を集めた有志の寄席の合同主催者としての勧誘。依頼主は、策伝での携帯紛失事件で諸々の手続きを手配してくれた同期であった。
 

生誕10000日を迎えました。その7

ひとまず、大学生活が始まった時点での人間関係を振り返っておこうと考える。
まず、高校から青山学院大学の理工学部に現役生として進学をしたのが私自身を含めて6名存在していた。このうち2名は大学からの指定校推薦による進学である。
(話が前後してしまうが、高校の同期は学校の「進学校」へ向けた前衛的とも言える指導の賜物と言うべきか、法政大学からの推薦については志願者不在につき辞退となった。要求される高校での成績がやや高めに設定されていた事も一因かもしれないが)
当時の東京都市大学付属高校の卒業アルバムには、卒業時に任意の人物に寄せ書きのようにメッセージを貰えるページがあるのだが、既に青学の指定校推薦を貰っていた同期が「大学に入ってもよろしくな!」というメッセージをしたためていた。これ自体は卒業式の日に起こっているが、私が青学からの補欠合格連絡を受けたのはこれより後になるので、母親は「予知能力の持ち主?」などと驚いていたりする。大学に入って百人一首のサークルに入るきっかけとなったその人でもあり、やはり彼は何かを持っているような予感がする。現在でも連絡を取っている数少ない親友の一人である。
もう一人の推薦組は、硬式野球でのエースであった人物である(余談だが、高3時に都市大学付属高は甲子園の予選会で3回戦に進出した。ここで本選進出の本命の一角である帝京高校に0-18で敗れたものの当時の最高成績を更新している)。高校生活の後半で同じクラスで席も近かったので、既にある程度は打ち解けていた関係であった。
一般受験を経て青学へ進学したうちの一人は、学科まで自分と同じ電気・電子工学科になった。また別の一人は物理・数理学科に行ったのだが、数理系の科目に秀でている関係で頻繁にノートを借りたり定理を教えてもらったりする事になる。

先に述べた「数学リメディアル」において、たまたま近くの席に座っていた(当時の私は視力の矯正が行われていなかった事もあり、特に指定が無ければ前列に着座していた)2人と連絡先の交換を行ったりもした。

大学1年次の講義は大別すると学科の専門科目(私は電気系)・学部で共通の科目(数理系や実技演習)・外国語関連(英語、第二外国語)・大学の定めた教養科目(大項目4つあり、卒業には各1つずつ必須。受講に抽選を要する)の4つに大別されるが、学科科目は同じ学科の同期と、数理系科目はクラス分けの関係で推薦組2名と同じコマであった。また第二外国語の選択とTOEICの成績が「硬式野球のエース」と同じであったり抽選に当たった教養科目もたまたま同じ教室でノートを借りる彼と受講したり。。と、偶然が重なった結果として、1年時に履修した講義の全てで高校からの同期が一緒に受講している事態となった。
ちなみに、電気科の特性はというと、「必修科目が多い」の一言に尽きるだろう。当時の理工学部での年間履修単位数の上限52(教員免許の獲得を目指す「教職課程」を申請した場合は+8。これは大学全体で共通)に対して39単位が必修で埋められており、数理系の演習科目と物理学を各前期と後期・2つ教養科目を入れた時点で実質「フル単」の状態であった(厳密には51単位だが)。
理工学部の中では、これとよく対比になるのは化学・生命科学科であろう。こちらでは選択必修の科目が非常に多いのだが、ある程度の広さを持つ分野ごとに必要な単位数が決まっていて(シラバス上では「〇の10単位中8単位必須」「▽の8単位中6単位必須」のような記載がされていた)、事実上は必修のような扱いの科目も非常に多かったようである。それでも履修登録では科目を入力する必要があるのだが。

ところで、私が落語研究会(以下、原則『落研』と記す)に招かれた「本当の理由」についてだが、これには一人の人物が大きく関わっていた事が明らかとなった。
当時、落研に所属していた「ゴリさん」という先輩がいたのだが、この人がそれは大層「狂人」と関わるのが好きな人間であった。この先輩は4年生であったのだが、後に聞いたところによると留年をして大学の在籍は5年目になるとの事であった。この方を含む当時落研に所属していた部員の方が狂人を愛しつつ真人間へと矯正する機関として「落語研究会」の方針を定めていたのである。
そして、私自身が落研の一員として学生生活を全うする事を誓ったのもゴリさんの存在が大きいのである。
私は前述の通り在学中には多数のサークルに所属をしていたのだが、その全てが上手くいった訳ではないのである。別のサークルの集まりで部員との関係が悪くなった後に落研の部室へ赴いた事があったのだが、その時は部室にゴリさんが一人で(記憶が正しければ)漫画を読んでいらしていた。私はサークルでの出来事を話した訳ではないのだが、何かを悟ってか悟らずしてか、私の面倒な絡みにも全く嫌な顔をせずに応じて、ただ話を聞きつつも大学生活や趣味の話をしていただけたのである。時間にしては20分程度だったと記憶しているが、この事によって当時の私は心が救われたのである。この出来事を通じて、私は「誰かの心を救える」存在になる事について考えるようになり、後の生き様に大きく影響を与える事になる。また人間関係の嗜好も、法とモラルに触れない程度の狂気を好んでいくようになっていった。

この頃のデジタルゲームは、世間的な流行から見ればやや低迷期に入っていた、のかは不明だが、ニンテンドーDSの一通りのソフトを遊んだ後は携帯電話からブラウザサイトに接続する形態をとるゲームが流行した。端を発するのは恐らくdocomoの「iモード」だが、広く知られるのは「モバゲー」だろうか。
私の家では専ら「GREE」のゲームが流行っていた。母親が「ハコニワ」を始めていた事がきっかけで、私も「釣りスタ」「ドリランド」をプレイしていた。
ドリランドは用意された幾つかの地層?で化石を発掘するゲーム、釣りスタは用意された幾つかの釣り堀で魚を釣るゲームであり、どちらも凡その最終目的は図鑑を埋める事であった。この頃になると、既にインターネットへのアクセス環境が一般家庭にもおよそ整備されるようになった関係もあって攻略情報が出回っている状態であった(そもそもゲームのサイトから攻略情報の掲示板へのリンクが設けられていた。俗に言う「公式」である)。そんな訳で、攻略情報をある程度は集めた上で、ゲームでは金策をして目的の魚や化石へ向けた装備を整えて、、というルーティンを時間の許す限り行っていた。非公式のサイトで編み出されたバグ技に頼ったりブラウザの有効期限が切れてアイテムがロストしたのも一つの思い出となっている。

高校の頃には泊まりのイベントには必ず教員が引率していたが、大学になると学生のみでサークルの合宿が行えるようになった。
私の初めての学生のみで行う泊まりのイベントは、かるた愛好会の夏合宿であった。当時は在籍者の殆どが1年生であり、参加者は11名の同期のみであった。当時は初めてのイベントとあって、練習試合と食事以外はスケジュールが殆ど決まっていなかったのである。大学生故の体力もあり、夜にはなかなか眠らなかった事を思い出す。ここで編み出された遊びとしては、創設者の兼任していたサークルの呑み会でのゲーム「パニパニゲーム」(リズムに合わせて、指名された人が振り付けに従い次の指名をする。両隣の人は別の振り付けを行う必要があり、振りを間違えたプレイヤーがペナルティ)を改良した「ほうれんそうゲーム」(両隣の人が「にんじん」と言ってグータッチの振り付け、指名された人から遠いプレイヤーは「ほうれんそう」と言いつつ両手を広げて床を叩く)であった。入浴の後にこのゲームを行ったのだが、事情を知らない部外者から見ると宗教にしか見えないと専らの噂であった。既に床に伏している合宿の参加者の部屋の周りで「ほうれんそう」を連呼しながら壁を叩くシーンはとても面白かった(眠っていた本人は傍迷惑だろうが)記憶が鮮明に残っている。
 

生誕10000日を迎えました。その6

前述した通り、高校3年の3学期は授業が行われない。校舎へ赴くのは専ら受験の経過報告と共に学んだ友との最期の交流のためという意味合いが強かったのだが、私の戦況があまり芳しくない様子であったゆえ先生方にもかなり心配されていた。受験戦略としては、あくまでも前向きに切り替えを行うように励まされたりもしていた。元々、学年全体に「外部の大学を受験する生徒はMARCH以上には全員が現役で合格できる」くらいの空気感が蔓延していたが、実際の受験を通じて現実を思い知らされた同級生もそれなりに多かったようにも感じられた。
受験とは関係のない戯言ではあるが、卒業式を間近に控えた頃に言われた印象的な同級生の発言は、大きく2つある。
一つは、ものつくり大学のオープンキャンパスへ赴いた別の同級生に言われた「大学名が彫られた石碑の周りは何もなかった、草原がただ広がっていた」というもの。私は思わず「もの作れてないじゃねーか」と口走った記憶が今も鮮明に残っている。
もう一つは、まず前提として、私は生来かなり強めのくせ毛の持ち主であるのだが、この件について同級生が語った「大髙が卒業式にストレートパーマをかけて来たら、、泣くに泣けなくなるわ!」という一言である。それほど、私の髪質は良くも悪くも印象的であったのだろう。
首の皮一枚を繋いだ形で手にした青山学院大学の合格。これについても早々に高校へ赴いて通達を行ったのだが、6年間を共にした学年主任の先生と熱い抱擁を交わしたのはとても印象的であった。他の担任であった先生方も口々に祝福の言葉を多くいただいた。とても暖かい学校で本当に良かったと、残り僅かな生徒生活にして考えさせられた。
卒業にあたって学校で行ったイベントは卒業式だけではなく、懇談会があった。新宿のハイアットリージェンシーにて、同期全員が円卓を囲んで、生徒1名につき保護者1名ずつ後ろの円卓で様子を見るイベントであった。入室時にお店の皆様が「いらっしゃいませ」と発声してお辞儀を少しずれて行うのが心に残っていたりする。基本的には食事をして歓談に勤しむのだが、途中でテーブル毎に簡潔なコメントを求められた。この時に印象的なシーンは、最後にクラスメイトとなった友人が卒業にあたっての抱負を語ったのだが、その内容が下品であったため、その友人の母親がテーブルにわざわざ近寄って物理的に注意をしていた(頭をどついていた)シーンであった。他にも、自分たちのテーブルでは『歓談』をしているのだが、隣のテーブルでは何やらコントのようなノリが始まった時に同卓していた友人の発した「こっち(の卓は)喋ってる、あっち(の卓は)騒いでる。(だから迷惑ではないし注意はされないだろう)」という台詞は時折思い出しては笑ってしまう。

2013年4月1日。私は渋谷の青山にある、青山学院大学の門をくぐる事になった。
家族が全員で校門の前で写真を撮ろうとしたのではあるが、やはり人気の学校ではある故に写真を撮るにも列に並ぶ必要があった。この日は正装をした記憶があるが、緊張して詳細なエピソードが記憶に残っていない。

どちらかと言えば、入学直前の日程となる3月下旬に開催されていた「数学リメディアル」というプログラムの方が印象的であった。内容は、大学の数学への橋渡しとなる高校までの数学をおさらいするものであったが、質問に対応するという形で先輩方と交流をする機会が設けられている形となっており、大学入学後のキャンパスライフについてのイメージを掴むよいきっかけとなっていた。また先輩方による部活動の紹介の時間もあり、個人的には海外渡航サークルに所属していた先輩の名字が特徴的であったのが印象に残っている。

ところで、青山学院大学の本拠地は青山であり、実際に大半の学部は青山のキャンパスで講義を開講しているのだが、私が所属した理工学部は神奈川の相模原市に所在しており、講義の大半はこちらで受講するのである。
個人的には、実家から渋谷へは電車で移動するのに20分足らずとなるので、実際に通学をする前はかなり楽に通学ができる期待があったのだが、実際には入学試験の受験と入学式、卒業式以外では公式の行事で出入りをしない結果となった。相模原のキャンパスの方が新しく綺麗な建物ではあったが、少し残念である。

4月2日には、入学にあたっての健康診断と、英語のクラス分けを目的としたTOEICの受験があった。
高校時代は学校が精力的に取り組んでいた事もあって英検は準2級まで取得しており、試験には「場慣れ」していた自負があったのだが、TOEICとあっては同じ英語の試験でも求められる力や形式が大きく異なっており、非常に困惑したのを覚えている。何より前日の事もあって体調が万全でなく、先に行われたListeningパートはすんでのところで切り抜けたものの、Readingパートに移行して10分ほどで睡魔に負けてしまったのである。試験室での「試験時間終了10分前」のアナウンスに起こされる体たらくを晒したのであった。

4月3日は、もうすぐ始まる講義へ向けて参考書の購入やキャンパス内の建物の配置等についての説明を受ける合間に、サークル活動への勧誘を受ける予定であった。
この時、サークルの勧誘スペースでは一つの教室に長机が4つほど置かれて1つの長机に2つの長机という形式で行われていた。青学ではのべ3桁にも及ぶサークルが存在しており、この日もたくさんのサークルが新入生との出会いを求めて勧誘に勤しんでいた。
ある教室に入ると、初めに目についたのは、奥に笑点を思わせるような6名ほどの人数のカラフルな着物の皆様。その手前には、先の数学リメディアルにてお世話になった、珍しい名字の方。この先輩も私の事は覚えてくださっており、それなりに会話が弾んでいた。
そして、この様子を見ていた着物の集団、、落語研究会の先輩方は、私の話しぶりに未来を見出したようで、私にロック・オンをしたようであった。落語をやる部活であるはずなのに、ある一人は「落語をやらなくていい! 即戦力になれるから! とりあえず入って!」という意味の通っていないようにも聞こえる言葉で自分を引き入れようとしていた。
今後の予定等を連絡するためとして、一通りの連絡先と氏名を記入して一度、その場を後にして引き続き他のサークルを吟味していたのだが、ふと携帯電話の画面を見たら4件ほどの不在着信が届いていた。全て同じ番号。折り返しかけなおしてみると「落語のブースに戻れ」との指示があった。何かの謎解きに巻き込まれたような不安に駆られながら、また一通りの勧誘を受けて、ブースを離れた。その後、他の用事をこなしていたところで、先と同じ番号から再び鬼のような着信が入っていた、、。結果、落語研究会のブースには1日のうちに3回も赴いているのである。
結果、私は熱意に半ば押される形で落語研究会の部員となるのである。

他にも大小さまざまなオリエンテーションを経て、4月の中頃から一般の講義が始まることになった。とはいえ、講義も基本的に初回は科目全体の概要を説明するのだが。
この時期は何より学生生活に「慣れる」事が肝要とされる時期ではあるが、私はとりわけ調子を崩してしまいがちになる傾向があった。いや、言い訳がましくなるのは見苦しいが。講義を行った教室やら学生食堂のフロアやらに、教科書から当時持ち歩いていたリュックサックに至るまで様々な遺失物を生み出してしまったのである。その数は最初の4月の一カ月の間に、6つにも及ぶ。一週間の間に2つずつのペースであり、高校から一緒に青山学院へ進学した同期の友人にほとほと呆れられた事を覚えている。

相模原の落語研究会の部室には、決まった曜日に先輩が勉強がてら入室しており、私も水曜日に講義の終わりに訪れて雑談をするのが慣例となっていた。
とある5月の日であったか、高校から青山学院の理工学部、化学科に進学した先の同期が落語研究会の隣の部屋に入るところを見かけた。聞くところによると、同じ学科の同期が「競技百人一首」を嗜むサークルを立ち上げ、その初活動が行われるらしかった。そこで私は試しに活動を見学する事にした。結果、そのまま3時間ほど活動に参加させて頂き、あれよあれよの間に「かるた愛好会」の正規のサークルメンバーとなっていたのである。
後に聞いたところによると、「競技百人一首」を行うサークルは、俗にいうMARCHの学群にある大学では唯一、青山学院にだけ存在しない状態であったらしい。後に初代サークル長となる同期が高校から有段者であったのだが、入学するまでは知らなかったらしく、別のサークルに入っていた同期の名前を借りてサークルを設立したのが始まりであったという。

落語研究会と、かるた愛好会。私は大学生活を通じて多くのサークルに加入ないし活動へ関与する事になるのだが、この2つのサークルが現役生として過ごす4年間を通じて所属し、また以後の人生を大きく彩る事になる。
 

生誕10000日を迎えました。その5

ところで、東京都市大学付属高校は大学受験にとてつもなく力を入れるようになっていた。高校1年生の頃から、入学の意欲を高める目的でオープンキャンパスへ行って参加レポートの提出を求められたり、夏休み期間に勉強合宿(参加は任意)が行われていたりもした。通常の授業でも公立では中学3年間で習う内容を2年間でほぼ習いきった上で中学3年以降は演習が多く取り込まれるようになり、高校2年あたりになると実際に過去に入学試験に用いられた問題が演習に用いられる事が日常であった。
私自身は学習合宿に高校2年時に参加をしており、八王子に30名ほどの生徒で5泊6日を過ごした事もあった。寝る前の話は志望大学について、、というわけでもなく、お互いの過去についてだったり、授業の内容(主に難度)についての話が多かった。あとは部屋の照明やら光源となり得るものを全て絶った状態で互いの身体をバスタオルで叩き合って「今の誰だよ!?」なんてじゃれ合ってみたり。なお全くの余談であるが、5泊6日という滞在期間は、10000日間のなかで自身や血縁の者の住居を離れた最長記録となっている。
高校の取り組みもあり、当時の私は精力的に大学のオープンキャンパスに訪れたのだが、文化祭に高校生の時分に参加したのは中央大学(後楽園のキャンパス)であった。そこで興味のあった「音楽サークル」の演奏を見学したのだが、フロアで男女関係なく体当たりでモッシュを仕掛けていた様子が当時男子校の生徒であった私にとっては非常に衝撃的であった。演者の側も女性ボーカルの方が激しく聴衆を煽ってパフォーマンスを行っており、フロアに転がったマイクを私が手早く拾って渡した記憶は今も色褪せていない。なお、学業面では研究室紹介の一環として展示されていたポスターセッションでの「今、氷が熱い!」というキャッチフレーズが印象的であった。
そのような事もあり、(あくまで何となくではあるが)中央大学の理工学部を志望するようになった事で勉強への意識はかなり高まったのである。以前に紹介した学年主任であり元々進路指導室の室長であった先生からは早慶や国公立のような上位の大学も検討するように勧められていたが、私自身の意志としては中央大学への入学を志していた。実際のところ経済的な側面を考慮した場合は国公立大学が優先されるのではあったと思われるが。

そのような日々を過ごし、高校3年生まではそれなりに勉学に励んでいたのだが、12月に受験した統一模試では衝撃的な出来事が起こった。
国語の教科の偏差値で25.1を記録したのである。数万人が受験する中で、下から数えて数百人程度の順位となってしまっていたと言えば分かりやすいであろうか。国語に苦手意識があったのは事実であり、高3時は私立受験コースのため文系科目の授業が無かった事も理由として挙げられるのだが、それでも非常に苦い思い出の一つである事は間違いなく、内心では半ば国公立大学の受験を諦めるきっかけであった。
当時、大学入試の中で行われていたのは「センター試験」。2日に分けて、1日目の土曜日に文系科目と最後に英語を、2日目に理系科目を受講する形であったと記憶している。
試験会場については、在籍高校の単位で複数の高校が同じ会場で受験を行うシステムとなっていたのだが、そのうち1校が東大へ毎年、数十名程度が進学するらしい高校であった。試験の休憩時間で「満点イケそーだわ」のような内容の会話が漏れ聞こえてくるのは少しプレッシャーとなっていたりもした。
また、試験の出来自体とは直接関係ない事ではあるが、1日目の試験を終えて帰宅する際には、誤って荷物を車両の中に置き去りにしてしまう事件も起こしてしまった。試験を終えた同級生が同じ駅から乗車するのだが、電車の扉が閉まりかけていたタイミングで改札をふざけて通過していた友人がおり、早く乗るように促そうとして列車を降りてしまったと同時に列車の扉が閉まってしまった。同乗していた同級生に預かってもらって即日、引き取る事ができた事でなんとか事なきを得たが、総じて試験の時期にはまるで余裕の無かった状態であったと回想される。
試験問題については、例年の傾向から考えると現代文の難易度が高く国語の点数が低い平均点となった。当時時点で歴代最低の平均点と言われていたが、翌年になってさらに更新されたと記憶している。他方で数学については、数1Aと数2Bが科目として用意されているのだが、数1Aが難化して平均点が100点中50点を下回り、数2Bがやや易しめとなった。これらの事を踏まえ、大学入試の全体的な戦略はおおよそ文系志望者が弱気、理系志望者が強気の志願をする傾向にあったらしい事を風の便りで知った。
そんな中、私自身はセンター試験の総得点は「565 / 900 点」(自己採点によるものであり、実際の結果は通知されない)。事前に想定していた得点は下回っているどころか、一つの基準と考えていた「東京工業大学の2次試験の受験資格」として設定された点数(通例では600点程度と言われていたが、実際の試験を踏まえて573点に引き下げられていたと記憶している)にも満たない結果となってしまった。当時の私は内心では自信をほぼ喪失してしまい、この時点で内心では浪人を覚悟していた。
学校や両親と相談して決めた大まかな受験の方針は「MARCH以上の大学に入学できなければ浪人」。センター試験の結果を用いずに個別の試験に赴いた私立大学は「東京理科大」「青山学院」「上智」「中央」「明治」「早稲田」の6校(およそ受験日程順。後半3つは日程が連続であった記憶あり)。志望校の選考基準は大学のブランドの他にも親から「実家から通える距離」である事を厳命されていた事が影響している。
私は理系を志望していたため数学と理科の受験をするのだが、問題の難易度は明治の数学が確実に満点を目指さないと絶望的とされるほど易しく、青山学院の数学も個人としては70点後半くらいの点数は確実に獲得できたとの手応えを感じるほどに易しく設定されていた記憶がある。他方で理科大や早稲田の数学は部分点を積極的に獲得するように立ち回る必要のある難しい内容であったが、当時の私にはそのような器用な芸当は出来なかった。中央大学のキャンパスへ向かう道中では、「理科大(の入試)で見覚えのある顔がいたわ~」という声が漏れ聞こえた事も鮮明に覚えている。私を指している発言であるかは不明だが。
結論から言えば、全ての試験に不合格の判定を頂戴した。
それでも、浪人を避けるためには私は止まる訳にはいかなかった。私立の個別試験の後に国公立の2次試験の日程が控えていたのだ。私は、前述のセンター試験の結果と通学の所要時間を中心に検討した結果として、2月下旬の前期日程に「東京農工大学」、3月中旬の後期日程に「電気通信大学」の受験をする事になった。
試験問題はというと、農工大での問題は特に取り立てて難しくも易しくもなく印象にはあまり残っていなかったが、受験を終えた後の手応えが良くなかった記憶がある。
前期日程の試験の合否は後期日程の前に通知されるのだが、結果は不合格となった。
電通大の問題も受験時の試験問題については思い出せる事は何もないのだが、前期日程の結果を踏まえた上で受験の要否が決められる影響が大きく、試験会場の教室の半分くらいが空席であった記憶がある。受験のシステム上、受験費は払っているはずではあるが。
また受験勉強の際に見つけた試験の過去問においては英語の物語文の内容が「余命の短い母親の見舞いのための有休を上司に断られた会社員が設備の欠陥を利用して上司を見殺しにする」という、あまりにも試験問題としては似つかわしくない短編サスペンスが印象的であった。後年にセンター試験等で見られる「人参に羽の生えた生物のイラスト」のような直接的なインパクトではないが、なかなか集中力を奪われる問題であろうかと考えた記憶がある。
後期日程の受験を終えて失意に暮れつつ帰宅をしたところ、母親にはあるものを見せられる。それは、青山学院大学の補欠合格の通知であった。中学受験の時といい、なかなかストレートには入学できないものである。形はどうあれ浪人を回避できた事になった当時の私はとても安堵したことは今も鮮明に思い出せる。
そして後期日程の不合格通知が届き、最終的な進路は青山学院大学に確定する事になった。
ところで応募した学科についてだが、漠然とプログラミングを生業としたいという感覚があった関係で、殆どの大学を「情報科学科」「情報工学科」のような名称の学科を志望していた。その例外は青山学院大学の電気電子工学科と明治大学の応用数理学科の2つ(通信工学との複合などもあるが、ここでは除外)であったが、後者の応用数理学科は当時に新設されて学生を初めて募集する年度、つまり1期生の募集であったため前向きな志願であったが、電気電子工学科は大学の募集要項を見た際に情報工学系の学科が見つけられず、分野の近そうな電気電子工学科へ願書を提出するというやや受動的な志願であった。この件が後にある事件を引き起こす事になるのだが、それはまた別のお話。

(なかがき)
今回、これまでの半生を振り返る腹積もりで筆を執っているのだが、当初は生誕10000日にちなんで総字数10000程度を想定していたのだが、自身の感情が動いた瞬間をできる限り文章として残そうとした結果、ここまでで15000字程度の量となってしまっている。
恐ろしい事に、ここが全体の「折り返し」である。この連載が終わるのは、一体いつになるのであろうか、、?
 

生誕10000日を迎えました。その4

高校一年生の終わり、3月14日からの4日間。予定では、世界大戦について学ぶ研修旅行として九州へ赴く、はずであったのだが、、、。
2011年3月9日。この日は、高1時の学年末試験の答案が返却される予定の日であった。当時の私は東急の電車を通学路として用いていたが、途中の乗り換え駅でホームの移動で階段を踏み外し、足首の辺りに激痛が残っていたものの処置は特にせずに登校、答案を受け取ってそのまま帰宅した。
2011年3月10日。収まらない足首の違和感。整形外科へ赴くと、診察結果は「靭帯損傷」。生来、不治の病を幾らか抱える身ではあるが、ここで新たに生涯癒える事のない傷を抱える事となってしまうのであった。
2011年3月11日。恐らくこの文章を読んでいる方には改めて説明をするまでもないとは考えているが、、14時頃に東日本大震災が発生した。当時の国内情勢は大幅に混乱に陥る事となり、本高校でも遅れて学年末試験を受けていた学年の生徒がそのまま自習していた等の理由で校舎に残っていたら図らずも帰宅難民となり、校舎の体育館で一夜を過ごしたような話を聞いた。(都市大付属高の校舎にはかなりの量の非常食が保管されているため、その点は問題なかったそうであるが)一方で当の私は、前日の診察での注意もあって自宅で安静にしており、SFCのゲームをプレイしている最中に地震が起こった形である。この事態を受けて、研修旅行は一度中止となってしまった。

高校2年時、私は柏苑祭のクラス委員となった。年に一度の学園祭であるが、委員の仕事は基本的には担当となった箇所の運営における実働部隊のようなものであり、各学年からおおよそ40名程度が集められて幾つかのブロックへ分けられて約4カ月にわたる準備と当日の運営へと臨むのである。私は第一志望を外装ブロックとしていたが、抽選の結果として「宴夜祭」の担当になった。宴夜祭とは、柏苑祭の展示が一通り終わりかけた頃にホールで行われる、要は学園祭の後夜祭にあたるものである。
私は元々、中学1年と2年の時は自身が担当となっていた出展でのシフトをこなしたらいち早く帰路についていたのだが、中学3年の際にふと思い立って宴夜祭を見学して、そのあまりのクオリティに驚いて以来、10年以上にわたり毎年欠かさずに観覧させて頂いている。ライブ形式のステージパフォーマンスなのだが、一夜限りの演舞へ向けて3カ月ほど前から練習を重ね、チームによっては出演を賭けて選抜を行うなども見受けられるなど一介の中高の学園祭としては極めて力の入ったイベントとしての側面が大きかった。オープニングの映像に始まって(本校は当時からCG等の技術が非常に高く、毎年とても見ごたえのある映像が観られる。担当は視聴覚委員だったと記憶している)、吹奏楽部のブラスバンドにより3~4曲の演奏があったのち、流行の楽曲のコピーダンスがめくるめく披露されていく。当時恒例であったのは「サッカー部によるEXILE」「海外のクラブミュージック」「ももクロ」「AKB48」等であった。なお私の在学中は前述したように現役のジャニーズが生徒として在籍していた関係か、ジャニーズ事務所の楽曲は披露されなかった(卒業後は嵐や関ジャニ∞・舞祭組等が披露されている)。また柏苑祭における「Mr. & Ms. コンテスト」の発表も行われていた。
高校2年生とあれば柏苑祭では集大成となる年、可能であれば演舞(バックストリートボーイズ)を行いたかったのだが、前述したオーディションに落選してしまった。一方で委員としての仕事は「上演中に天井にレーザーを当てる」係。聞こえが悪いかもしれないが、実はパフォーマンスを前の正面から間近で鑑賞しつつオーディエンスの熱狂を肌に感じられるいわば「特等席」のような役割であった。無論、パフォーマンスを引き立てつつ演者の視力を奪ってしまわないように調整が必要になる点ではやや難しいのであるが。DJ OZUMAとラグビー部がユニフォームのまま踊る「Gee/少女時代」、当時保健体育を担当していた女性の先生が同級生と一緒に踊ったAKB48が特に印象に残っている。

話が前後するようであるが(今に始まった事でもないが)、高2時の夏休み期間を用いて「震災の爪痕が色濃く残る」東北地方の現状をを体感しよう、との思いを胸に、父親と2人で宮城~岩手を跨ぐ2泊3日の旅行を行った。初日と最終日は慰安旅行とほぼ変わらないのだが、2日目に震災から復興できていないままの地域を闊歩した。商店街もシャッターが目立ち、墓地も墓石が倒れたまま放置されていたり、寺院の中にまで土砂が侵入していたりするなど普段の生活では想像し難い光景の連続であった。そのような状況下で印象的であったのは、なぜか理髪店だけはサインポールを回して営業している点であった。理由は不明だが、飲食店よりも理髪店の方が営業再開を早めていたのである。

この時期に私が精力的に取り組んでいた事の一つに、ニンテンドーDSの「おいでよどうぶつの森」オフライン通信機能を用いたオフライン交流会が挙げられる。
形式としては、2chに交流会専用のスレッドが存在しており、企画と相談を経て、渋谷や池袋等の繁華街を指定して散策をしつつ、アイテム付きの手紙を用意して「すれちがい通信」により交換をするものである。実際に会って話をするわけではない。
このイベント、中学生の頃は親のどちらかに連れていって貰っていたが、高校になると私が一人で出向く事が多くなっていった。とりわけ頻度の高いスポットは池袋のサンシャインシティと水道橋のラクーアであろう。印象的な出来事としては父親と2人で渋谷の109に向かった事もあったりした。場にあまり似つかわしくなかったのは言うまでもない。
このイベントに参加する事で、私はショッピングモールを筆頭にある程度の都内のホットスポットについて詳しくなり、また電車での移動についても抵抗が殆ど無くなった点が後の私自身の方針に大きく影響を与えているように思われる。

前述した通り、東日本大震災のため(当然だが、私が怪我をしたためではなく)研修旅行は中止となっており、当時の学年主任の先生によると私の学年ではそのまま行わない予定であったのだが、高校2年の冬休みに延期という形で敢行される事になった。
研修旅行は3泊4日のうち、初日と最終日は学年全体で現地の方の講話を聴講する一方で、2日目と3日目は予定を班ごとに決められる「自由行動」の時間が大半となっていた
班は生徒が自主的に編成可能であった。私は高校1年次に学年委員長に就任した関係もあり二つ返事で所属する班の班長に就任したが、俗に言う「鉄道ヲタク」のメンバーと資料館巡りをしたいメンバーで意見が合わず、旅程の協議が難航して調整に苦慮したのは一つの思い出となった。
最終的に確定した旅程は、高校1年時の3月に行われる場合の日程に合わせて作られたものであったのだが、延期になった事で曜日が変わっていた件を反映できていなかったのが大きな誤算であった。実際に旅程を練り直す気力もなく決行したのだが、目的地に含まれていた博物館が当該の曜日を定休日としていて入館できなかったのが苦い思い出である。