同窓生ブログ

生誕10000日を迎えました。その13

3日目の打ち上げが終わり、最後の夜を迎えた。
大学生とあっては、宿泊イベントではすぐには眠らないのが常というもの。この日は昨夜と同じくボードゲームの他に当時に青学かるた愛好会でも流行っていた「人狼」を行っていた。青学と、当時キャンパスが近くて親交の深かった國學院大學のメンバーが合同で円を囲んでいた中に、今回のイベントで交友を持った方が少数いた格好である。
当時の私は人狼の腕がからっきしであり、当時のサークル内でのキャラクターも相まって占い師の役職を引いても弁明ができないまま初日の昼に吊られる(投票最多でゲームから除外される)事もあったりした。ゲームの腕とは関係のない所ではあるが、役職は霊媒師を頻繁に引くことについてもネタにされていた記憶がある。
それなりの回数を行った中では、一つ前のラウンドに後輩の参加者が処刑されている事に私が気づかずに話かけた点が最後の夜で残った人狼を処刑台にかける決め手となった一件が印象的に残っている。
私の記憶では、この一夜に9ラウンドの人狼ゲームを行い、そのまま一睡もしなかったのが一つの思い出となっている。
結局眠らないまま、翌朝を迎えて朝食を頂いたあと、付近を少し散策したのち3泊4日を過ごした滋賀を離れたのである。繰り返すが前夜は一睡もしていないのであるが、意外にも私を含むメンバーの多数が帰りの電車でも眠らずにトランプに興じていて眠っていなかったのである。なお近江に向かった青学メンバーの8名のうち、4名が延泊して兵庫の方面に観光をしたらしいのは、また別の話。

2つ目の印象的な外泊イベントは落語の学生選手権として知られる「てんしき杯」開催に伴う岐阜への宿泊であろう。
私にとっては1年時に策伝大賞へ赴いて以来、学生生活で2度目の「落語の学生選手権への関与」となる。1年時の策伝へはエントリーをして書類選考に落選していたが、この時は披露可能な演目数の問題があってエントリーをせずに会場へ赴いている。
てんしき杯のシステムは大まかには策伝大賞と似ているのだが、予選への参加は選考でなくエントリーの先着順を採用している。そこから4会場に振り分けられ、出場の枠を超えたエントリーはキャンセル待ちのような形となる。それぞれの会場では、4名の審査員が点数を持ち、1位に3点・2位に2点・3位に1点を(恐らく1名ずつに)与えて合計点を競う形式である。会場毎に出場者は30名のため、点数を貰う事自体が極めて栄誉とされる。決勝には各会場での得点上位2名ずつと、その8名を除いて高い得点が得られた2名の合計10名で決勝を争う形である。決勝戦は策伝と異なり、1 on 1のトーナメントを繰り返す形で行われる。対戦の度に高座を演じる関係上、エントリーの時点で4つの演目が必要とされる。
学生生活の半ばを過ぎた3年次にもなると、同期同士の間でもある程度は実力の有無について評価が大まかに決まっている頃である。優勝の栄冠についても「下馬評」のようなものが存在しており、風の便りで私の耳にもそれなりに届いていたりするのである。
私の同期である関東の3回生のうちでも、有力とされていた2人がいた。彼らは2年次頃から共に切磋琢磨し、2年次の11月頃には「2人会」を行うほど親密な仲であった。そしてこの片方が、一つ前の策伝で決勝へ進出している。その2人が、この大会では偶然にも同じ会場に振り分けられ、出番順も続きになっていたのである。私を含めて彼らと近い関係の者が一斉に会場へ押し寄せたのは言うまでもない。
この時の昼食は、私は何故か日本大学芸術学部の同期・1つ下の後輩と共に外食した。その際に、女子の後輩がスカートを履いていたのだが、ソファに座ると同時にテーブルに足を載せた際に下着がハッキリと見えてしまったのである。要するに「パンモロ」である。他大学の後輩に対して物理的な指導を行ったのは、この時が唯一と記憶している。
夕方頃に、別に出場していた青学の後輩と共に日大文理学部の同期の出番を観た。この男もまた親交があり、正統派ながら独自解釈による編集を的確に行うなど実力者と目されていた。
彼の演目は「平林」。その名を持つ者へ子供がお使いを行うも宛先の名前の漢字が読めなくなり、通りがかった人に教わった読み方が間違っているというストーリー。
彼が演じた時は、途中に入る使いの子供の心情描写にスポットが当てられており、観ている者が引き込まれていくのを感じた。私も、間違いの読みの一つである「いちはちじゅうのもーくもく」を復唱する際に彼が行っていた振り付けがあまりにハマっていたのを目の当たりにして、彼の決勝進出を半ば確信した記憶がある。
そうして一日目の予選を終えたのち、夜には決勝進出者の発表が行われた。関西勢は殆ど面識がない一方、関東の参加者はそれなりに知り合いも多く居合わせていた。
決勝に進出するのは10名であった中で、関東勢は3名が含まれていた。その中には、先に述べた日大文理の同期と、午前中に連続で出番を迎えていた2人の同期のうち策伝で決勝に進出していなかった1名がいた。関東勢の同期からは一つ前の策伝で進出した1名と合わせて3名が世に出た形となり、全体的な躍進が始まった事を感じさせた。またもう一人は自分が以前の策伝で知り合い、個人的にお世話になった先輩であった。発表の際には一つ前の座席に座っており、発表の始まる直前に「先輩が通れるように通路を開けておきますね」とおどけたのも印象的な出来事となっている。なお、関西勢の決勝進出者のうち1名は2年ほど前に桜美林での寄席で観客として来場しており、その後の打ち上げで4人でカラオケを行った間柄である。
決勝戦は、関東勢3名のうち2名が一つ目の対戦で敗退。特に日大文理の同期とお世話になった先輩が最初の対戦カードになるなど、苦汁を飲むシーンが多かった。その中で、日大文理の同期は関西で優勝候補の一角とも目されたらしい当時の4回生を準決勝で破るなどの躍進を果たした。
迎えた決勝戦、日大文理の同期の相手は、2年前にも栄冠に輝いていた優勝大本命の人物であった。同期の男は演目に入る前の「マクラ」で「ここまで来る事になるとは思っていなかったのですよ!」と慟哭をしていたのが印象的であった。結果的には敗れて準優勝となったものの、総評でも健闘を称えられるなど実力は界隈全体に広く知られる所となった。
なお、この2泊3日は実質的に弾丸旅行のような形であった。宿泊をする場所についても極めてノープランに等しい状況であり、予選の日は当日たまたま空いていたホテルに飛び込み、決勝の夜は(翌年のてんしき杯を制覇する事になる)後輩とカラオケボックスで過ごす形であった。私の半生史上でも最も多方面に迷惑をかけた外泊イベントの一つとして記憶に残っている。
 

生誕10000日を迎えました。その12

3年前期の成績が出た。
これまでの2年間はなんだかんだ不合格となった単位は一つも無かったのだが、ある一つの科目でついに単位を落としてしまっていたのである。
当該の科目は、評価を付けるために期末試験のみならず中間課題が課されていた。この課題を、当時の私はどういうわけか(実際には他の科目で課されていた課題等との兼ね合いである可能性もあるが定かではない)当日になっても課題が半分も終わっていない状況であったのだ。そして普段は授業態度の良いと思われる私が、ひとつ前の授業中に無関係の課題を行うという暴挙に出たのである。
中間課題は電子データによる提出であり、一つ前の授業はヘッドホンを使用する都合でPCにログインをするのであった。このPCで先生の目を盗みつつ提出用ファイルの編集を行っていたのだが、先生が不意打ちで生徒のPC画面を教室前面の大型スクリーンに映してしまったのである。クラスメイトの失笑を買ったのは言うまでもない。

前にも述べているが、大学3年時の夏には2日以上の外泊を伴う旅行が5回にも及んでいた。その中で一番初めであり8月の初頭に訪れたのは、小倉百人一首の発祥の地とされているらしい「近江神宮」であった。
赴いたイベントの名前は「全日本大学かるた選手権」。日本全国に存在する競技かるたのサークルが年に1度のみ集結する大会である。青山学院大学のかるた愛好会としては設立3年目にして初参加となった。
基本的には試合がサークル同士の対抗戦としての趣きが強く、当時は1日目に団体戦・2日目に個人戦が行われる形であった。そして特筆すべきは、大会の参加者であれば近江神宮の大部屋で就寝することが可能である点であろう。大会が行われる2日間の間と前後で合わせて3泊を近江神宮の広間で枕を並べられるのである(男女で分かれており、女子の宿泊場所は不明である)。
青学かるた愛好会のメンバーは、1期生にして当時3年生であったのは私一人であり、2期生にあたる2年生が6名と1年生が1人の8名であった。2年生の何名かが既に段位を獲得していたため団体戦は2年生を中心とした編成としていた関係で私の出る幕はないのであった。個人戦は、学年ごとのトーナメントとは別に「昇段戦を未経験」という条件のみで出場できる「新人の部」が存在しており、私はそちらへエントリーしていたのである。
東京から滋賀県へは電車で向かうのだが、この旅程がなかなかに距離の長いものであった。往路はメンバー全員が一緒に鈍行でゆっくり向かう算段であったが、まず名古屋まで在来線を複数回に亘って乗り継ぐ必要があり、それなりに体力が消費された事が印象的であった。サークルの仲間が居たので退屈はしなかったが(なお私は通学していたキャンパスが異なっていた関係で、この往路で1年生と初顔合わせであった)。都内の駅を立ったのは午前のそれなりに早めの時刻であったが、目的地に到着したのは夕方5時を回っていた。
到着してからは大会の運営より説明を受けたら、残りは食事、入浴、就寝と「生活」をこなして過ごした記憶しかない。当時の私はニンテンドー3DSのすれちがい通信を起動していたはずなので、その辺りの事は行った記憶があるが。
夜が明けて、団体戦の当日になった。各々のサークルから選出されるチームのメンバーはいわば「(戦力的な意味での)チームの代表」たる面々が名を連ねており、この団体戦での結果がサークルとしての格を表す一つの基準として分かりやすいものとされていた。なおサークル毎のチーム数は基本的には1つずつであるが、慶応大学などサークルの規模が大きい場合等は複数のチームを登録している場合もあった。
初参戦となった青学は、3回戦敗退という結果となった。準決勝辺りまで進出するチームとなれば、選手としては公式戦で最高リーグとなるA級の選手のみで構成されるチームばかりとなっており、いつか青学もそれほどの強豪になれるのだろうかと感慨に耽った記憶がある。
決勝戦のカードは大阪大学vs法政大学、これを制したのは大阪大学であった。個人的には、大阪大学は落語でも全国大会の優勝常連校(当時は毎年2名ずつしか居ない)であり、法政大学は頻繁に学園祭へ足を運んだ体感で課外活動に注力できる環境が特に整っている印象を持っていた。本大会の結果についても素人ながら腑に落ちた感覚を覚えたのである。
大会が終わって、食事(親睦会のような合同形式だった記憶もあるが定かではない)を終えた後、大広間で大勢が過ごす自由時間。大学生にとっては、ここが本番とも言えようか。この時間はなぜか私は慶応のメンバー10名ほどの中に混じり、パーティーゲームの「ワードバスケット」をプレイしていた。サークル内でもどうやら強さ弱さがネタにされたりハンデを課したりしているようであったが、私は外様でありながら勝ち抜けを果たせる3人の中に安定して入ることができたのである。プレイ中の記憶としては、最後に残った手札が「ゆ」であった時に直前で「そ」を差し込まれた咄嗟に「ソバージュ」を即座に捻りだして勝ち抜いた一件であろう。後にボードゲームを趣味の一つとして何百もの非電源系ゲームを何千回と行う私であるが、10年近く経過してもなお未だに忘れられない私の半生上でも歴史的な試合の一つである。
再び夜が明けて、個人戦の当日。この日は私も登録された選手として参戦したのだが、新人戦の部においては公式の段位に影響を及ぼす事が無い(他の学年毎のトーナメントでも同様であったかもしれないが)のであった。後に悟った事ではあるが、対戦を通じて親睦を図る事をメインに考えた方が有益であったと感じている。トーナメントの準々決勝戦あたりまで進出できる実力があろうものなら話は変わるが。
初戦の相手は、名前から関西方面と見える大学の1年生で、取り札を自身の取り手の側に置くなど(失礼ながら)あまり公式戦に慣れていない様子の女子であった。試合結果は20枚近くの差をつけて勝利。2回戦目は、昨日の団体戦でサークルとしての強さを身に染みて知っていた大阪大学の1年生女子であった。こちらは終始スキのない攻めを魅せられた結果、16枚の差を付けられて敗退となった。
自身の試合が早く終わった事で、この機会に自分と同学年の選手の姿を拝見しようと、私の足は3年生の部の会場へ向かっていた。既に決勝戦の暗記時間が始まっていたのだが、その暗記をしている最中の選手の姿がやや異様であった。試合中には自身が座るであろう座布団の少し後方に立ち、右腕を軽く振りながら時折その右手で膝を叩く姿は、今も鮮明に思い出せる。最終的にはこちらの選手が優勝の栄冠を手にして3回生の部は幕を下ろすのであった。
2日間に及ぶ試合が終わると、会場として使用した部屋の掃除を学生で請け負う時間があった。初参加の青学も名乗りを挙げたところ、関東と関西それぞれ1団体ずつのグループで1箇所を清掃する手はずとなっていた。
青学のペアとなったサークルは「京都産業大学」の出身。相手側には私と同期となる3回生が2名(共にB級の実力者)おり、初参加の感想を和気藹々と語った思い出がある。関西勢としては初めて面識を持った相手となったが、彼らとは近くこれまた青学が初出場となる10月頃開催の職域かるた会にて、対戦相手として再会を果たすことになる。
その後、全体での懇親会を兼ねた夕食(バイキング形式に近いものだった記憶)。私は青学のメンバー同士とも会話しつつ、先の新人戦での初戦の相手と再会した。聞くところによると、所属する会の発足そのものが「今年であった」ようで、随時メンバーを募集しているようであった。当時に連載していた「ちはやふる」から競技かるたの世界に入ったそうであり、曲がりなりにも「創立メンバー」の先輩として些末ながらアドバイスを贈った思い出がある。
 

生誕10000日を迎えました。その11

一方で、これまでの大学生活においては「バイト」たる行為を行っていないのであるが、2年後期から3年前期まではスケジュールの空白が多く見受けられたのを契機とみて、学内にフリーペーパーとして置かれていたタウンワークを落研の部室に持ち込んで熟読したのである。当時の先輩や同期と相談をしつつ、日雇いの人材派遣系のバイトに情報を登録する形となった。
そもそもこの時点ではバイト、というか勤労という行為に対するイメージが固まっておらず「やろうと思えば誰でも大体できる」というような感覚であった。最終的に登録する以外のバイトとしては居酒屋のフロア担当者の募集についても面接を申し込んでいたが、2カ月の短期では募集をしていない旨を告げられて面接を中断された事は記憶に残っている。ちなみに競技かるたの練習試合の合間で休憩した20分間の出来事である。
基本的には人手を必要とする「軽作業」(力仕事も稀に含む)が前提とされており、臨海の地に位置する輸送業のセンターでの荷物の点検や地域の振り分け、大きなイベントの設営・撤収作業に伴う搬入出の作業がメインであった。原則として1日限りの契約ではあるが、前者のような運搬ルートに関わるものは事業所の営業日であれば毎日、人員の募集がされているため私自身も複数回にわたって赴いており、その場で恐らく似たような境遇の人物が数名ほど顔見知りになるような事もあった。後者のケースは単発であり、どちらかと言えば日当の給料は高めに設定されている傾向があった。また私が行ったのは1度だけだが中古PCの周辺機器を端子から合わせて梱包・発送する業務もあった。
物品の搬入にあたって製品や建物を傷つけるのは当然ご法度になるので厳重な注意を受ける事はある意味で印象的であったが、他方では仕事を行う上で守るべき責務についての社会勉強となった側面もあった。前述したPCの発送の際は責任者の方とマンツーマンで業務を行い、缶コーヒーを奢られながら世間話に講じたのも一つの思い出である。なお電車や専用シャトルバスの遅延等で集合時間に間に合わずに叱られる事も何度かあったりする。
最も印象的な出来事としては、発送時のバーコードリーダーによる検品作業を行った際に恐らく別の派遣会社からの人物が居たのだが、当時に人気のアイドルグループであった乃木坂46のメンバーに風貌が似ていたのである。休憩時間にお手洗いの場所を質問されたのだが、まさか日雇いのバイトをしている訳がないとは思われるので別人であろうが印象には強く残っている。

落語のサークルにおいては4年生を追い出す会として「卒業寄席」が冬休み中2~3月に行われる。出演者は当該サークルの卒業生・同期であるが卒業をしない人物やそれらの人物と親交の深い者が中心となり、お客様として他サークルの友達が来場するのが基本的な慣例である。
3月のある日、私は成城学園前の近くにキャンパスを構える成城大学の落語サークルの卒業寄席に赴いた。2年先輩の代は青山のサークル活動においてもお世話になっている関係で同期の当時4年生の先輩と一緒であった。
この寄席そのものは大きな問題もなく終わって先輩とも駅で別れたのだが、立地が徒歩10分程度のところにある我が母校、東京都市大学付属中高の様子をついでに見にいったのである。すると偶然、前に述べた同窓会の幹事を務めた2名に加えて年配の方1名が校門から出てくるシーンに出くわしたのである。
そのままなし崩し的に話の輪に加わり、駅付近のやや高級な喫茶店にて聞いたところによると、高校の同窓会には「理事会」たる運営組織が存在しており、少し前の「成人を祝う会」にて幹事を務めた2名は同期会の開催にあたり理事会より設営の援助をされていたというのである。共にいらした年配の方は私より44年前に高校を卒業した大先輩にあたる理事のメンバーであった。
それ以後はこの方と連絡を取り合いつつ、オブザーバーとして理事会へ出席をする事となるのだが、当時の理事会はメンバーの大半が還暦を超えており、全員がそれぞれの分野で相応の成功を修めている方々であった事もあり話の内容もあまり理解ができていなかったのが実際のところであった。ところが理事会の出席には3,000円の手当が付けられる形であったため、拘束時間が最大2時間から計算して前述の日雇いバイトより時給換算が高額となる事を見込んで出席を続けていたのである。
それから時を待たずして高校60期の3名が理事会へ加入と相成った。加入自体は翌年度の開始時点で内定していたが、受理されたのは5月の総会の時であったと記憶している。理事会の定例会は隔月でしか行われていなかった筈なので特別な集まりがあったのであろうか? あまり記憶が定かではない。この出来事こそが後の人生を大幅に変える事となった一因である事は間違いないのであるが。

3年生になった。
これまでの2年間で「必修」にあたる学科の講義科目は全ての単位を修得していたので、基本的には評価の高く付けられる傾向のある教養コア科目を選んで履修する方針であった。とは言いつつ、講義に関しての情報がなかなか入手できなかったので手当たり次第に空きコマを青スタで埋めていく形になっていたのだが。また学科の実験科目は2年次と同様に火曜と木曜の2回で毎週レポートの提出が必須である形式であった。2年後期のスタイルが1年通して行われる事になる。
講義の中では英語の技能を高めるものは3年生になったら必修ではなくなり、また技能の種類を選んで受講をする事が可能となった。更に週の中におけるコマ数が2年次までは2科目(講師は別の人)2コマであったのだが3年次では1科目1コマとなった。
そんな折、英語の教材としては大学の在籍と同時にe-learningのアカウントが個別に割り当てられていた事が明らかになった。というのも、1年次から教材の進捗が科目の成績に含まれてはいたものの、本格的に講師から講義中に積極的な声掛けがあったのは2年になって以後の事であったためである。
3年次になって時間に比較的余裕ができると、より深く取り組みを試みるようになっていた。というのも、このe-learningの中では教材に取り組んだ数を「マイル」という数値で加算されるシステムが内蔵されており、その数値がトップページに表示されるのである。また用意された教材がセクション毎に纏められたページを見つけた私は、講義の合間にPCルームに立ち寄って教材を進める習慣ができていた。結果、講義において指定される教材のみをクリアした他の同級生と比較すると、私が集めたマイルの数値は7倍ほどにもなっていたのである。

また、ここで新たに一人の人物にフォーカスを当てたいと考える。この男は私の1年後輩として文学部に在籍していたのだが、特筆すべきはそのサークルの在籍数。1年次での彼の在籍数はなんと7つにも及んでいる。その内訳は漫画研究会や茶道部といった文科系が多くを占めるがミッション系サークルも所属していたりもした。そして落語研究会、かるた愛好会の2箇所で私と共通のサークルに在籍した形である。
彼は小柄で人懐っこく天然な性格と言え、人によって評価が分かれる傾向にある人柄に見えていた。落語研究会では持ち前のユーモアと生真面目さや高い熱量で先輩から愛され、かるた愛好会では癒し系として男女問わず屈託なく接されていた(かるた愛好会は文系側の青山キャンパスは彼らの代を起点として人数が多くなっていたため近しい先輩が殆ど居なかったのである)
私は基本的には落語も百人一首も腕前では最終的に彼には追い越されてしまう形となっていくが、彼視点では複数のサークルに渡って共通で関わる人物が1人しか居ない事もあったとの事であり比較的ノリを一緒に行ったりする機会は多かった。一方のサークルのノリを他方へ持ち込んで「それ俺しか分からんやろ!」等とツッコむのが多かった記憶がある。

3年次の夏休みには、サークルの合宿や全国大会の遠征が多く予定されており、なんと5回にわたり2泊以上の滞在を予定されていたのである。そして、そのうち3回は上述の後輩が一緒に宿泊をする形となっていた。その中でも印象的な宿泊について述べていきたいと考えている。

生誕10000日を迎えました。その10

この頃になると、地上波のテレビはコンテンツとしての力が弱まっているような機運の高まりが感じられるようになり(とは言っても一時期ほどの絶対的な力が薄れた程度ではあるが)、元々2010年代から存在したらしい「ニコニコ動画」を始めとする動画サイトにコンテンツとしての機能が推移していった時期であった。なお私自身は大学でOfficeツールによりレポートの提出が必須となる大学2年時まではWindowsに触れておらず、家庭ではMacのPCでiTunesによって音楽を聴いたりインディーズのゲームをプレイしたりするような用途でしか使用していなかったのである。自身が中高生である時分に流行っていたらしい「ニコニコ動画」の文化については、大学に入ってサークルの先輩方からノリで学んでいった形である。
先に述べた通り動画サイトのYoutubeを頻繁に視聴していたのだが、当時のYoutubeでは楽曲以外にも「ゲーム実況」というジャンルの動画が投稿されていたのも特徴的であった。一昔前に人気を博していた「東方」のキャラクターの首から上のみにして簡略的なモーションを一通りライブラリに揃えているナビゲーターに解説をさせる動画も多く、これらは挨拶として決まり文句になっていた「ゆっくりしていってね!!!」というフレーズからその名がついたとされる「ゆっくり解説」なども挙げられる。
私がこの頃に視聴していたのは、動画内ではキャラクターに会話をさせてゲームをプレイする様子を見せる配信者「たくっち」「ぽこにゃん」等の方々である。ゲームの種類としては、アクションゲームのステージを自分で作成できる「マリオメーカー」や、仮想空間でのやや原始的な生活を体感できるPCゲームの「マインクラフト」等が挙げられる。他にも携帯のアプリゲームや当時に発売したものなど注目度の高いゲームがジャンル問わずに紹介されていて、とても面白いコンテンツであった。
もう一つあったのは、ニンテンドーDSの上位機種である「ニンテンドー3DS」の本体に内蔵されていた「うごくメモ帳」を用いて、お笑い芸人のネタのアテレコを棒人間や任天堂のキャラクターに再現させる(ニコニコ動画からの流れで、マクドナルドのマスコットキャラクターであるドナルドの姿も変わり種としてかあった)紙芝居のような動画が流行していた。主なネタ元の芸人は「陣内智則」「超新塾」「浅越ゴエ」などの、文字情報がメインとなるネタやギャグが多かった。
生活の中では、先に述べた楽曲垂れ流し動画をレポート作成と同時進行で視聴しているのに対して、ゲーム実況の配信は寝る前や余暇の空き時間が費やされるケースが多かった。元来、休日でも朝は7時には覚醒していて日中でも問題なく活動出来ていた私であったが、大学生の頃から朝が遅くなり、また昼食後の講義中に睡魔に襲われるケースが増えてきたような気がするが、恐らくはYoutube視聴の習慣による生活リズムの乱れが原因なのかもしれない。

2014年7月23日、私は数え年で20歳を迎えた。
この日は平日であり、前期の講義テストが目前の時期でもあり普通に講義に出席するのみで終わる予定であったのだが、青山キャンパスでは落語研究会の部室に頻繁に集まっていたメンバーで食事をしている(何か決定事項もあったかもしれないが、詳細は覚えていない)そうで、18時頃に同期の部員から電話がかかってきた。「特に用があった訳ではないが、暇だったらどう?」くらいのノリである。家族から誕生日の祝いを受けるかもしれないとも考えたが、呼ばれているなら行くくらいのノリで渋谷へ向かっていた。
現地では、何のこともなく普段からよく行っていた居酒屋で6人くらいが集まってダラダラと話すだけで誕生日であった事については簡単にしか祝われないのだが、やはり青春の1ページとして語るには不足ない1日を過ごせたと言えよう。個人的には変に特別扱いされるのもやや苦手な性分である事もあるので。

TVの話については、この頃は広い分野に関心が出ていた関係もあって「タモリ俱楽部」を視聴するようになっていた。週に1度、主に世間的には決してメジャーとは言えない細かいジャンルの専門家・好事家を招いて見識を深める特集を行う番組である。
この番組の中でほぼ必ず行われるコーナーとして「空耳アワー」というものがある。これは、日本製でない楽曲の一部分を聴いて、日本語でどう聴こえるかを視聴者がハガキで投稿、それに合わせて番組が映像を作成するコーナーであった。私は投稿こそした事はないが、父親の趣味であった「ビージーズ」「Jackson Brown」や高校の時分より自ら聴いていた洋バンドの曲が頻繁に取り上げられ、元々の楽曲のイメージが壊されていく感覚を楽しんでいた。時折、チェアマンのタモリ氏が原曲の意味や背景についても触れる事があり、意外と知らない見識も得られるのがタメになった。

2014年の11月頃であろうか。自宅に1通の往復はがきが届いた。それは、東京都市大学付属高等学校第60期生の、同期会の案内はがきであった。
当時の呼称は「成人の祝い」。後に聞いたところによると、これまで還暦を祝う会は毎年行われていた一方で成人の同期会は当代で初めて行われたらしく、また成人を迎える代が単独で同窓会のイベントとして会を行うケースは今のところ唯一であるそうだ。
当時、幹事として動いていたのは高1時に同じクラスであったが文系を選択した関係で以降は別クラスとなっていた同期であった。この男とはとりたてて親交が深い訳ではないが、何か奇妙な縁がある故か都内を電車で移動していると結構な頻度で出くわしたりするのである。
会そのものは2時間ほどしか行われていなかったようだが、学年に240名が在籍していたうち半数以上(正確な人数は覚えていない。なお別の高校を受験する等で中退をした人物の姿も見られた)が参加していた事もあって非常に濃い時間を過ごす事ができた。印象的な出来事としては、先輩の率いる社会人バンドによる演奏と床にこぼした氷を踏んで砕いた件であろうか。
最も印象的であったのは、出席していたとある同級生が当時は成人の年齢を迎えていなかったのだが、法令を遵守してアルコールを一滴も摂取していなかった件であろう。在学中にクラスの担任であり同期会に同席していた先生をして「芸能人としての覚悟」を示した態度を見た私は「自分には到底できる事ではない」と芸能人にかかる重圧と責任について深い感慨を得たのである。

2年間の講義が全て終わり、2年後期分の成績が3月初めに開示されると、一つも不合格とはならずに無事に3年次への進級が決まったのだ。余談ではあるが、2年前期は講義科目が多く履修単位数が34に上っていたが、その時も不合格の単位が無かった際には非常に安堵したものである。2年間で一度も単位を落とすことなく、累計の取得単位数は103に及んでいた。
問題点としては、フル単ではありながら「可」に該当するCの評定も多く、俗に言う「GPA」が今一つ高くない状況であった。後に分かる事であるが、3年前期までの同学年での順位は42位であったそうである。もう一つは、学部で共通の数学系科目と学科の専門科目を多く取得していた一方で大学共通となる教養科目である「青スタ」が殆ど取れておらず、その中で特に主要となる「教養コア」たる科目を4つのうち3つ取ったのみであり、それらを細分化した選択科目を全く履修できなかったのである。
この事を踏まえ、3年時は半期ごとに3科目ずつは青スタの科目を履修していき、学科の専門科目は少し抑えていく方針となった。
 

生誕10000日を迎えました。その9

当時の関東の落語サークル周辺の界隈では、所属の大学やサークルの垣根を越えて現役学生同士で親交が深まり、独自に寄席を開催するのがイベントの一つであった。とりわけ特筆性の高い出来事としては、私の3年先輩の方が自身の出身大学の和室で毎月1度くらいのペース(あくまで体感ではあるが)で寄席を主宰しており、中でもクリスマスイブの当日午前中に開催を決定して14時頃には演者が7名ほど集まって何食わぬ顔で寄席を開催した1件は10年近く経った今でも現役生に伝説として語られていると聞いている。
先に述べた「2人会」というものに、私が主催の片割れとして声がかかっていたのは、3月の頃であったと記憶している。コンセプトは、大学の垣根を越えて同期の親睦を深めるのが目的であり、色物(漫才)の例外を除けば各大学から1名ずつ勧誘をしていたそうである。そして交通の便の良い立地であった青山キャンパスが開催地として白羽の矢が立つと共に演者として私が選ばれたのである。
寄席の名前は「俺達寄席」。なお私自身は共同主催であった自覚は実際のところ殆どなく、また後にシリーズとして開催される事になるなどとは露ほどにも思っていなかった。
日程調整やそれに伴う出演辞退などの問題もあったが、私の出番についての件がかなり大きな問題であったかもしれない。最初に話を持ち掛けられた際は、主催の2人で漫才を行おうと提案されていたのだが、如何せん漫才についてはノウハウもまるでなかった(この辺はサークルの色の違いに起因する側面もあるが)事で内容の変更をさせてしまったのである。私は落語をやる事になったが、どちらにせよ下手ではあり。良くも悪くも濃いキャラクターとして当時の関東学生落語の方々で名前が知れ渡る結果となった、、そうである。
個人的には課題が多く残ったものの、元の目標であった「同期の親睦を深める」といった点では、寄席の後の打ち上げも含めて結果的に大成功となり、10年近くが経過した今となっても人生でも屈指の良き思い出である。

2年生の5月に行われた俺達寄席の余韻が冷めない6月半ば頃、私は平日には相も変わらず実験のレポートに追われて営業時間いっぱいまで図書室に入り浸る生活を送っていた。
ある日、営業時間が過ぎた図書室を追い出されて大学の最寄り駅となる淵野辺駅へ歩いていた時であった。道中、黒塗りで細長い、いかにも高級そうな車の中から声をかけられた。
車の窓を開けて現れたのは、いかにも痩せぎすの壮年男性であった。彼の話によると「腕時計の押し売り?のノルマを達成できずに在庫を抱えてしまっており、このまま持ち帰ると会社から処分が下る。ここで出会ったのも何かの縁、1つで良いから内密に持ち帰って欲しい」との事であった。わざわざ時計のカタログ(後の展開を考えると偽造の可能性もある)を見せながら、本来は100万円ほどの価格で取引している旨を伝えながら、半ば押し付けてきたのである。
ここで男の要求は終わらず、「この後仕事の接待があり、銀座でネーチャンと呑む。時計の対価と言っては何だが口座から下ろしてでもくれないか」との事であった。『淵野辺から銀座への移動時間を考えると最低でも到着は23時以降であり接待の時間にしては遅すぎる』等、冷静に考えると不自然な点が多い状況ではあったのだが、当時の私は焦らされていた事も手伝って判断のできる状態ではなく、そのまま手持ちであった7,000円(口座からは下ろさなかった)を渡してしまった後、男と別れたのである。
電車の中で冷静になった私は、定期圏内の途中の駅で改札を出て近くの交番に駆け寄って一連の出来事を話した。交番に居た警官2名によると、私が疑念を抱いた通り時計は「明らかにブランドの高級品ではない」そうであった。また警察の立場として「経緯はともあれ現物として腕時計が残されている以上、詐欺としての立件は難しい」「本件は社会勉強の受講料と思って諦めた方が良い」との事であった。
当時の私はかなり悔しさが募っていたのだが、後に腕時計に書かれていた名前(ブランド名?)から調べてみると、件の腕時計の実際の相場価格はおよそ2,500円であり、被害額としてはおよそ4,500円と、大学生の遭う詐欺の被害額としては決して高額とは言えない価格である。落語をやる上で、冒頭に自己紹介がてら身の上話を行う「マクラ」として鉄板エピソードとなるにはそう時間を要さなかったのは言うまでもない。後に俺達寄席を共催した落語サークルの同期に注意喚起の目的で長々とメールに文章として書き下ろしたのは、また別の話。

先に述べている通り、実験科目の単位を取得するためにはレポートを作成する必要があり、これには毎週4~5時間程度が費やされる。大学生活に慣れてくると、レポートの作成に取り組むタイミングや場所に関してある程度は決まった「ルーティン」のようなものが自然と形成されてくるのである。
まず1年次に課されていた実験科目は理工学部全体で共通であり、中でも化学科の所掌である科目のレポートは1部の構成が手書きでA4の用紙に20枚前後のものであった。これが2年次になると、学科の科目になる事に伴って作成方法も変わり、ワープロソフトを用いて電子データによる作成が認められるようになるのである(というより、実験中にグラフ等を作成する関係もあるため実質的にPC必須)。このため、レポート作成に求められる環境が異なるのである。化学のレポートには知識が必要となるため紙媒体の文献を取り寄せるのが必須であったのに対して、電気工学のレポートは基本的に一部の原理を除けば演算や表・グラフの作成がメインとなるため、データを保存したUSBをPCルームに持参すればレポートは作成できるのである。
そのような事情の元、2年次以降は平日に淵野辺、土曜に渋谷にある青山キャンパスに赴きレポートの作成をして午後に部活動という活動をする週が大半を占めていた。稀に残件があって日曜日にもPCルームに赴くケースがあったりもしたが。
そして、いざPCルームに居る時でも単純にレポートだけに取り組んでいた訳でもなかった。大学のPCルームうち語学関連の講義に用いるために良質なヘッドセットが常備されている部屋も存在しており(感染症対策の求められる現在においては知る所には無いが、当時はそのような教室はさほど多くなかったと記憶している)、手ではレポートを作成しつつも耳ではYoutubeで楽曲を視聴していたのである。この頃はYoutubeの中で規制がさほど厳しくなかったのか、公式のチャンネルが提供しているMVだけではなく許可を得ていないと思しき動画も散見されていた。
主に聴いていたのは、高校時代に軽音楽の仲間内で演奏が流行っていた「オフスプリング」「9mm Parablem Vallet」のような曲と、00年代のポップスが中心であった。かつて通っていた学習塾のロビーで、リラクゼーション用途を想定したオルゴールVer. とピアノアレンジVer. のCDがローテーションで流されており、これを契機に「Mr. Children」「コブクロ」「平井堅」「SMAP」「福山雅治」「いきものがかり」等のアーティストに関心があった。
中でも思い出に残っているのは、塾でもオルゴールVer. をよく聴いていた「365日/Mr. Children」であり、初めて視聴した時は楽曲の素晴らしさに聞き惚れ、気付いたら(レポートを作成中にも関わらず)感涙してしまっていたのである。この経験が元で音楽への愛に目覚め、後の人生に大きく影響を与える事となる。