中学3年生以降は、前年度の成績を参照した上で習熟度別にクラスが編成されることになるが、私は在学中の成績が下から数えた方が早い順位であったため上位のクラスに入ることは叶わなかった。
この習熟度別クラス分けと、外部からの干渉の少ない環境への慣れが相まって、正直なところ、下位側のクラスの授業態度は決して良いとは言えないものとなっていた(無論、下位クラス同士でもある程度の差はあったのだが)。当時の先生方には、この件についても当時の生徒一同を(勝手に)代表してここで謝意を示しておきたい。
中学3年時に思い出深いのは、本校のOBであった社会人の方を講師として招いて現代社会の過ごし方について講演を行う「キャリアスタディ」であろう。
講演にて話された内容は今となっては殆ど覚えていない(←ヲイ)のだが、自分のクラスにおいでくださったOBの方が少し寒めの駄洒落を好む方で「新聞に『乗った』」と言って床に敷いた新聞の上に乗る等の言い回しはよく覚えている。
まさか10年近く経過した後に自身が企画に深く携わるなどとは、当時はつゆも思っていない。因果とは不思議なものである。
そして、ごく一部の生徒を除けばそのままエスカレーター式で高等部へ進学となる中で、形式的に中学校の卒業式を執り行った。
ここで、事件は起こった。
この日は、私の記憶では午前中に高等部の卒業式を行った後に昼頃から中等部の卒業式を行う予定であったが、私が通学に使用していたバスが大幅に遅延していたのだ。結果として、私が校舎に到着する頃には卒業の式典が終わっており、各教室に戻って今後の連絡事項を確認する時間となっていたのが苦い思い出として残っている。
また、この頃に母親が掲示板「2ch」でのある書き込みを見て私に尋ねた。
「『菊池』って子、学年に居る?」
母の言うところに依ると、学校毎の話題を語るスレッドで「ジャニーズの菊池風磨が都市大の付属の中学に通っているらしいのですが、、」という旨の書き込みがあったようである。この時は特に気にも留めていなかったのだが、これ以降は母がジャニーズ全体の動向をそれとなく追うようになり、ジャニーズJr.(平たく言えば事務所における研修生のようなものだろうか)がメインで出演する「少年俱楽部」をほぼ毎回観るようになった。
後に学年も私自身と同じである事が分かり、また授業参観があった際に母が顔を見たことで確信を持ったようである。
私自身は風磨の属する友人グループには属していなかったのだが、定期試験の答案返却の日のような、早めの時間に解放される日に教室で6名くらい適当に遊ぶことはあった。特に印象に残っているのは、机の上で消しゴムを指で弾いて机から落とされたら脱落となるゲームを行って、最終的に勝ち残った私と風磨の一騎打ちの末、私が優勝した事だろうか。他にも腕相撲や名前のよく分からない遊び(指で相手に攻撃をする、攻撃されたら相手の指の本数を足す。指5本になったらアウト)をやった記憶がある。
塾にもいくつか思い出があった。私は中学受験のために通っていた塾で引き続き英語の進学コースのグループ授業を受講していた。小学校の頃と比べると授業態度が落ち着いていたが、クラスメイトが天然な人物が多く、受講中にテキストの端から鉛筆で徐々に塗り潰してしまう生徒や、2人組で説明の最中にボールペンで互いに刺し合って注意されている生徒なども居た。それでも、小学生の頃のように泣かされるようなトラブル等はなく、至って穏やかに勉強ができていたと感じている。
中学3年の3月、高校進学の祝賀会を行った。これは元々、小学生の頃に中学受験のコースの生徒が合格を祝う会を行った事が記憶にあり、高校への進学にあたり相応の人数が塾を去る事となるため、私が個人的に塾の先生方へ持ち掛けたのがきっかけである。実際の会では歓談に勤しみつつ、塾に置いてあった知育用のジェンガで遊ぶというものであった。私がわざと涼しい顔を装って瞬発的にジェンガを抜くというギャグで場を沸かせたのは良い思い出である。
そして、高校生になった。
高校一年生の時、何となく興味のあった「クラス委員長」に立候補をしたところ、他に希望者がおらずそのまま就任と相成った。
その数日後に行われた学年委員会において、とあるお調子者の同期に唆される形で「学年委員長」にも立候補。3名の立候補の中で簡潔なマニフェストを述べた上で投票を行い、結果としてそれなりの僅差を制して晴れて「学年委員長」にも就任と相成った。あくまで学年集会レベルの決議権と、年間に2,3回ほど高校全体での集会で大まかな学年全体の近況を話すような仕事をするだけなのだが。
学校生活もこの頃になると、少しではあるが全体の解像度がそれなりに上がっている頃であり、生徒側も先生によって授業態度を変えるようになっていく。その中でも、高校1年次に私の属するクラスを担任して頂いた先生はひと際「ナメられて」いた。絶妙に天然というか、挙動がユニークでありながら、自称「暴力団の組長」。高校1年の学年末試験後、3月頃に企画されていた研修旅行におけるしおりの読み合わせの際にある生徒が「不良に絡まれたりカツアゲに遭いそうになった時はどうすれば良い?」との問いに対して「『俺の担任は〇〇だぞ』って言えば怯むから。大丈夫だから」と仰っていた事は今でもよく覚えている。
私は後に自身を「悪魔」という設定で部活動を行う事になるのだが、そのモチーフとなった人物の一人がこの先生なのである。
当時、TVで人気を博したタレントの一人に、元総理大臣の孫でミュージシャンの「DAIGO」がおり、身近な単語をアルファベットの略語に変換するのが学校で流行っていた。とりわけ、物理の単語の中で頻出の「垂直抗力」→「SK」、「鉛直方向下向き」→「EHS」は物理の内容を理解(というより暗記?)するのに大いに貢献したかもしれない。
もう一つ著名人の印象的な事象としては、アーティスト「マイケル・ジャクソン」の訃報である。元々身体を動かすのが好きであった当時の私はこれを小耳に挟んだ事で「唐突にマイケル・ジャクソンの魂が憑依して踊りだす」という設定で高校生の生活をしばらく過ごす事になっていた。哀悼の念もへったくれもなかったと、今ではとても反省している。
この習熟度別クラス分けと、外部からの干渉の少ない環境への慣れが相まって、正直なところ、下位側のクラスの授業態度は決して良いとは言えないものとなっていた(無論、下位クラス同士でもある程度の差はあったのだが)。当時の先生方には、この件についても当時の生徒一同を(勝手に)代表してここで謝意を示しておきたい。
中学3年時に思い出深いのは、本校のOBであった社会人の方を講師として招いて現代社会の過ごし方について講演を行う「キャリアスタディ」であろう。
講演にて話された内容は今となっては殆ど覚えていない(←ヲイ)のだが、自分のクラスにおいでくださったOBの方が少し寒めの駄洒落を好む方で「新聞に『乗った』」と言って床に敷いた新聞の上に乗る等の言い回しはよく覚えている。
まさか10年近く経過した後に自身が企画に深く携わるなどとは、当時はつゆも思っていない。因果とは不思議なものである。
そして、ごく一部の生徒を除けばそのままエスカレーター式で高等部へ進学となる中で、形式的に中学校の卒業式を執り行った。
ここで、事件は起こった。
この日は、私の記憶では午前中に高等部の卒業式を行った後に昼頃から中等部の卒業式を行う予定であったが、私が通学に使用していたバスが大幅に遅延していたのだ。結果として、私が校舎に到着する頃には卒業の式典が終わっており、各教室に戻って今後の連絡事項を確認する時間となっていたのが苦い思い出として残っている。
また、この頃に母親が掲示板「2ch」でのある書き込みを見て私に尋ねた。
「『菊池』って子、学年に居る?」
母の言うところに依ると、学校毎の話題を語るスレッドで「ジャニーズの菊池風磨が都市大の付属の中学に通っているらしいのですが、、」という旨の書き込みがあったようである。この時は特に気にも留めていなかったのだが、これ以降は母がジャニーズ全体の動向をそれとなく追うようになり、ジャニーズJr.(平たく言えば事務所における研修生のようなものだろうか)がメインで出演する「少年俱楽部」をほぼ毎回観るようになった。
後に学年も私自身と同じである事が分かり、また授業参観があった際に母が顔を見たことで確信を持ったようである。
私自身は風磨の属する友人グループには属していなかったのだが、定期試験の答案返却の日のような、早めの時間に解放される日に教室で6名くらい適当に遊ぶことはあった。特に印象に残っているのは、机の上で消しゴムを指で弾いて机から落とされたら脱落となるゲームを行って、最終的に勝ち残った私と風磨の一騎打ちの末、私が優勝した事だろうか。他にも腕相撲や名前のよく分からない遊び(指で相手に攻撃をする、攻撃されたら相手の指の本数を足す。指5本になったらアウト)をやった記憶がある。
塾にもいくつか思い出があった。私は中学受験のために通っていた塾で引き続き英語の進学コースのグループ授業を受講していた。小学校の頃と比べると授業態度が落ち着いていたが、クラスメイトが天然な人物が多く、受講中にテキストの端から鉛筆で徐々に塗り潰してしまう生徒や、2人組で説明の最中にボールペンで互いに刺し合って注意されている生徒なども居た。それでも、小学生の頃のように泣かされるようなトラブル等はなく、至って穏やかに勉強ができていたと感じている。
中学3年の3月、高校進学の祝賀会を行った。これは元々、小学生の頃に中学受験のコースの生徒が合格を祝う会を行った事が記憶にあり、高校への進学にあたり相応の人数が塾を去る事となるため、私が個人的に塾の先生方へ持ち掛けたのがきっかけである。実際の会では歓談に勤しみつつ、塾に置いてあった知育用のジェンガで遊ぶというものであった。私がわざと涼しい顔を装って瞬発的にジェンガを抜くというギャグで場を沸かせたのは良い思い出である。
そして、高校生になった。
高校一年生の時、何となく興味のあった「クラス委員長」に立候補をしたところ、他に希望者がおらずそのまま就任と相成った。
その数日後に行われた学年委員会において、とあるお調子者の同期に唆される形で「学年委員長」にも立候補。3名の立候補の中で簡潔なマニフェストを述べた上で投票を行い、結果としてそれなりの僅差を制して晴れて「学年委員長」にも就任と相成った。あくまで学年集会レベルの決議権と、年間に2,3回ほど高校全体での集会で大まかな学年全体の近況を話すような仕事をするだけなのだが。
学校生活もこの頃になると、少しではあるが全体の解像度がそれなりに上がっている頃であり、生徒側も先生によって授業態度を変えるようになっていく。その中でも、高校1年次に私の属するクラスを担任して頂いた先生はひと際「ナメられて」いた。絶妙に天然というか、挙動がユニークでありながら、自称「暴力団の組長」。高校1年の学年末試験後、3月頃に企画されていた研修旅行におけるしおりの読み合わせの際にある生徒が「不良に絡まれたりカツアゲに遭いそうになった時はどうすれば良い?」との問いに対して「『俺の担任は〇〇だぞ』って言えば怯むから。大丈夫だから」と仰っていた事は今でもよく覚えている。
私は後に自身を「悪魔」という設定で部活動を行う事になるのだが、そのモチーフとなった人物の一人がこの先生なのである。
当時、TVで人気を博したタレントの一人に、元総理大臣の孫でミュージシャンの「DAIGO」がおり、身近な単語をアルファベットの略語に変換するのが学校で流行っていた。とりわけ、物理の単語の中で頻出の「垂直抗力」→「SK」、「鉛直方向下向き」→「EHS」は物理の内容を理解(というより暗記?)するのに大いに貢献したかもしれない。
もう一つ著名人の印象的な事象としては、アーティスト「マイケル・ジャクソン」の訃報である。元々身体を動かすのが好きであった当時の私はこれを小耳に挟んだ事で「唐突にマイケル・ジャクソンの魂が憑依して踊りだす」という設定で高校生の生活をしばらく過ごす事になっていた。哀悼の念もへったくれもなかったと、今ではとても反省している。
約2年3カ月にわたる受験勉強の果て、志望度の高い武蔵工業大学付属中学校(以下「ムサコー」)への入学を果たした私。
しかし、中学受験を補欠でこそあれ乗り越えた安堵感と、それまで遊べなかった事により抑圧されていた私自身の娯楽欲が抑えきれず、最初のおよそ半年はほぼコンピュータゲームに明け暮れる日々であった。
中学1年生で人生で初めてとなる「中間試験」、「期末試験」を受ける事になるのだが、前述した通りの体たらくで勉強には全く身が入っておらず、試験の成績は当時在籍していた240名のうち下から20位くらいの順位となり、1学期を通じての評点に至っては240位/240人と、学年の最下位となってしまっていた。
通知表を見た母親が叱るわけではなく珍しい物をみたような反応であった事も印象に残っている。後に少しずつ回復しておおよそ180位くらいまで浮上していくのはまた別の話。
ところで、ムサコーにおいては学年ごとに「学年主任」1名と各クラスの「主担任」によって「担任団」が形成されるのだが、当時(中学1,2年時)の私のクラス担任と、在学中6年間通しで学年主任を務める事になる先生には、極めて手厚いケアをしていただいた。
この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。
1学期の終業式が終わって間もなく、「林間学校」が行われた。3泊4日だったのだが、それまでの人生で2泊3日より長く家を空けたことが無かった筆者にとっては新鮮な感覚があった。
この時、、実は行先さえも今となってはまともに覚えていない(長野県菅平だったか?)のだが、、印象的な出来事としては、旅行中の4日間のうち3日目に誕生日(13歳)を迎える事になるのだが、それを旅行中にはすっかり忘れていた折の出来事であった。大部屋で8人くらいが一斉に睡眠を取るのだが、寝る前に友人同士のノリで授業で覚えたての英語で半ばふざけて会話をしていた時である。
友人A “What’s your name? “
友人B “My name is 〇〇.”
友人A,B “ウェ~~イ!ww”
友人A “How are you old? (私に対して)“
私「(!)そうだ! 今日は俺の誕生日じゃん!!」
友人A,B 「マジで!? おめでとう!! ウェ~~イ!ww」
、、という具合で、自身の誕生日である事に気づいたのが当日の21時頃になった事が印象的な出来事となった。
ムサコーライフを語る上でまず外せないのは、やはり「柏苑祭」であろう。正しい読みである「はくえんさい」では間違いなく変換ができず辞書登録を余儀なくされる名前の文化祭であるが、在校生のほぼ全員にとって勉学以外に全身全霊を捧げられる最良の空間といえよう。
初めて「柏苑祭」に私が登場したのは小学6年生、つまり入学前の最後の年になるのだが、そこで私は数多くの展示を見学させていただいた。その中でも「マルチメディア研究部」における自作のPCゲームに感銘を受け、「ムサコーを第一志望としよう」と決める大きな決め手となったのである。
現役生として初参加となった中学1年時は「3学年合同展示」に参加したのだが、出展に関してはほぼ先輩に叱られた記憶しか残っておらず、いい思い出はさほど残っていない。私個人としてではないが、学校の備品である学習机をハプニングで破損してしまうアクシデントに対して、当時中学3年生のクラス担任であった先生に「人任せにしてんじゃねぇよ!!」と怒鳴られたりもした。一方で吹奏楽部による演奏や「エレクトロニクス研究部」による展示、校内BGMとしてHapiness(嵐)や小さな恋のうた(DragonAsh)が流れていた事などは良き思い出として残っている。
中学2年生になり、クラスの顔触れが大きく変わる(当時は1年に1度のペースで担任と生徒が入れ替わっていた)のだが、結果として学年の中でも授業態度の良くないクラスとなっており、この1年間は授業を担当した先生の大半の逆鱗に触れる事となったのが印象的であった。
この頃の趣味の方について特筆すべきは、やはりビデオゲームとテレビについてだろう。
我が家庭ではこの頃NintendoDSを購入しており(最終的に合計4台。うち一台は祖父へのプレゼント)、マリオやカービィ等の任天堂ソフトを中心に様々なソフトをプレイしていた。中でも「だれでもアソビ大全」というソフトには多数のテーブルゲームが収録されており、後に生涯の趣味となるボードゲームの基礎的な知識の礎となったと感じている。
特に印象的なソフトは「おいでよどうぶつの森」。購入をしたのは2007年頃だったはずだが、本体の日付をわざと1年遅れた設定にして起動した上で、プレイの密度を高めて徐々に追いつくムーブを行った事を覚えている。
地上波のテレビ番組では、2000年代後半からお笑い芸人の多く出演する番組が増えていた。ネタ披露番組はそれまで「爆笑オンエアバトル」「エンタの神様」の2つが主であったが、「爆笑レッドカーペット」「ドリームマッチ」「あらびき団」等が新たに始まった。バラエティ番組についても、「めちゃイケ」「はねるのトびら」「ロンドンハーツ」のように、メインの出演者が芸人である番組の比重が高まっていた。他方では、「ネプリーグ」「Qさま」「ジャポニカロゴス」「ヘキサゴン」「IQサプリ」のようなクイズ番組も良く視聴しており、お茶の間の話題の大半をテレビが彩っていたといっても過言ではなかろう。
ビデオゲーム以外では、家庭でのオンライン環境が安定したのをきっかけにPCでインターネットに接続する習慣が定着したのもこの頃であった。前述したゲーム(特に「おい森」)の攻略掲示板には多大な助力を頂いた一方、私自身もプレイデータや花の交配といった検証結果レポートを投稿・追記した。
とりわけ私はインターネット掲示板の「2ch」(現「5ちゃんねる」)の閲覧を盛んに行っていた。2chでは話題のテーマ毎に「板」なるものが存在しているのだが、私は専らビデオゲームやテレビ関連の板に「生息」していた。昨今では特に取り沙汰されて問題になっている「ネットリテラシー」の概念だが、当時中学生の私はあまりそれを持ち合わせておらず、画面を隔てた相手と口喧嘩に発展する事も何度かあった。それらの出来事は後に、今の私のSNSの利用スタイルに活かされる事になる。
同級生について実名を伏せた上で少し触れると、名字が学年通しで自分の後ろにいた男とはそこそこ仲が良かった。家が近所であり、一度だけだが近くのデパートで偶然エンカウントした事もある。恰幅の良くサッカー部で活躍しており、風の便りによると都内でそれなりに優秀な公立大学へ現役で進学したという。
また交友はさほど深くなかったが、小学校が唯一同じであった男は、ポケモンに傾倒していた。彼は校則で禁止されているにも関わらず校内にゲーム機を持ち込んでおり、自身が授業を別教室で受けていたタイミングで彼の席からDS本体を偶然見つけられて本人が知らないまま没収された現場では失笑を禁じえなかった。
その他に印象に残っている同級生としては、およそ以下の通りだろうか。
・怒りのあまり自習の時間に教室の壁に絵の具で落書きをした男
・放課後に悪戯で黒板消しクリーナーに水を大量に注いだ男
・校舎のベランダに閉じ込められて怒り、扉を蹴飛ばして鍵ごと破壊した男
・ライトノベルを愛読しており、黒板一面に「撲殺天使ドクロちゃん」の絵を描いた男
・昭和レトロを愛して十八番は「リンゴの唄/並木路子」、単語帳の例文をほぼ覚えた男
・机の周りが異様に散らかる男(名字をとって通称「〇〇ワールド」)
・文化部(将棋部だったか?)でありながら怪力の持ち主で趣味が手品の男
etc.. と、法律に触れないエピソードに限ってもこの濃さである。これらの交友関係、ひいては生活環境に身を置いた6年間が後の人生に如何程の影響を及ぼしたかは計り知れないのは言うまでもないであろう。他クラスの黒板を消すために学年中の全クラスの時間割を把握しきった私の言えた義理ではないのだろうが。
しかし、中学受験を補欠でこそあれ乗り越えた安堵感と、それまで遊べなかった事により抑圧されていた私自身の娯楽欲が抑えきれず、最初のおよそ半年はほぼコンピュータゲームに明け暮れる日々であった。
中学1年生で人生で初めてとなる「中間試験」、「期末試験」を受ける事になるのだが、前述した通りの体たらくで勉強には全く身が入っておらず、試験の成績は当時在籍していた240名のうち下から20位くらいの順位となり、1学期を通じての評点に至っては240位/240人と、学年の最下位となってしまっていた。
通知表を見た母親が叱るわけではなく珍しい物をみたような反応であった事も印象に残っている。後に少しずつ回復しておおよそ180位くらいまで浮上していくのはまた別の話。
ところで、ムサコーにおいては学年ごとに「学年主任」1名と各クラスの「主担任」によって「担任団」が形成されるのだが、当時(中学1,2年時)の私のクラス担任と、在学中6年間通しで学年主任を務める事になる先生には、極めて手厚いケアをしていただいた。
この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。
1学期の終業式が終わって間もなく、「林間学校」が行われた。3泊4日だったのだが、それまでの人生で2泊3日より長く家を空けたことが無かった筆者にとっては新鮮な感覚があった。
この時、、実は行先さえも今となってはまともに覚えていない(長野県菅平だったか?)のだが、、印象的な出来事としては、旅行中の4日間のうち3日目に誕生日(13歳)を迎える事になるのだが、それを旅行中にはすっかり忘れていた折の出来事であった。大部屋で8人くらいが一斉に睡眠を取るのだが、寝る前に友人同士のノリで授業で覚えたての英語で半ばふざけて会話をしていた時である。
友人A “What’s your name? “
友人B “My name is 〇〇.”
友人A,B “ウェ~~イ!ww”
友人A “How are you old? (私に対して)“
私「(!)そうだ! 今日は俺の誕生日じゃん!!」
友人A,B 「マジで!? おめでとう!! ウェ~~イ!ww」
、、という具合で、自身の誕生日である事に気づいたのが当日の21時頃になった事が印象的な出来事となった。
ムサコーライフを語る上でまず外せないのは、やはり「柏苑祭」であろう。正しい読みである「はくえんさい」では間違いなく変換ができず辞書登録を余儀なくされる名前の文化祭であるが、在校生のほぼ全員にとって勉学以外に全身全霊を捧げられる最良の空間といえよう。
初めて「柏苑祭」に私が登場したのは小学6年生、つまり入学前の最後の年になるのだが、そこで私は数多くの展示を見学させていただいた。その中でも「マルチメディア研究部」における自作のPCゲームに感銘を受け、「ムサコーを第一志望としよう」と決める大きな決め手となったのである。
現役生として初参加となった中学1年時は「3学年合同展示」に参加したのだが、出展に関してはほぼ先輩に叱られた記憶しか残っておらず、いい思い出はさほど残っていない。私個人としてではないが、学校の備品である学習机をハプニングで破損してしまうアクシデントに対して、当時中学3年生のクラス担任であった先生に「人任せにしてんじゃねぇよ!!」と怒鳴られたりもした。一方で吹奏楽部による演奏や「エレクトロニクス研究部」による展示、校内BGMとしてHapiness(嵐)や小さな恋のうた(DragonAsh)が流れていた事などは良き思い出として残っている。
中学2年生になり、クラスの顔触れが大きく変わる(当時は1年に1度のペースで担任と生徒が入れ替わっていた)のだが、結果として学年の中でも授業態度の良くないクラスとなっており、この1年間は授業を担当した先生の大半の逆鱗に触れる事となったのが印象的であった。
この頃の趣味の方について特筆すべきは、やはりビデオゲームとテレビについてだろう。
我が家庭ではこの頃NintendoDSを購入しており(最終的に合計4台。うち一台は祖父へのプレゼント)、マリオやカービィ等の任天堂ソフトを中心に様々なソフトをプレイしていた。中でも「だれでもアソビ大全」というソフトには多数のテーブルゲームが収録されており、後に生涯の趣味となるボードゲームの基礎的な知識の礎となったと感じている。
特に印象的なソフトは「おいでよどうぶつの森」。購入をしたのは2007年頃だったはずだが、本体の日付をわざと1年遅れた設定にして起動した上で、プレイの密度を高めて徐々に追いつくムーブを行った事を覚えている。
地上波のテレビ番組では、2000年代後半からお笑い芸人の多く出演する番組が増えていた。ネタ披露番組はそれまで「爆笑オンエアバトル」「エンタの神様」の2つが主であったが、「爆笑レッドカーペット」「ドリームマッチ」「あらびき団」等が新たに始まった。バラエティ番組についても、「めちゃイケ」「はねるのトびら」「ロンドンハーツ」のように、メインの出演者が芸人である番組の比重が高まっていた。他方では、「ネプリーグ」「Qさま」「ジャポニカロゴス」「ヘキサゴン」「IQサプリ」のようなクイズ番組も良く視聴しており、お茶の間の話題の大半をテレビが彩っていたといっても過言ではなかろう。
ビデオゲーム以外では、家庭でのオンライン環境が安定したのをきっかけにPCでインターネットに接続する習慣が定着したのもこの頃であった。前述したゲーム(特に「おい森」)の攻略掲示板には多大な助力を頂いた一方、私自身もプレイデータや花の交配といった検証結果レポートを投稿・追記した。
とりわけ私はインターネット掲示板の「2ch」(現「5ちゃんねる」)の閲覧を盛んに行っていた。2chでは話題のテーマ毎に「板」なるものが存在しているのだが、私は専らビデオゲームやテレビ関連の板に「生息」していた。昨今では特に取り沙汰されて問題になっている「ネットリテラシー」の概念だが、当時中学生の私はあまりそれを持ち合わせておらず、画面を隔てた相手と口喧嘩に発展する事も何度かあった。それらの出来事は後に、今の私のSNSの利用スタイルに活かされる事になる。
同級生について実名を伏せた上で少し触れると、名字が学年通しで自分の後ろにいた男とはそこそこ仲が良かった。家が近所であり、一度だけだが近くのデパートで偶然エンカウントした事もある。恰幅の良くサッカー部で活躍しており、風の便りによると都内でそれなりに優秀な公立大学へ現役で進学したという。
また交友はさほど深くなかったが、小学校が唯一同じであった男は、ポケモンに傾倒していた。彼は校則で禁止されているにも関わらず校内にゲーム機を持ち込んでおり、自身が授業を別教室で受けていたタイミングで彼の席からDS本体を偶然見つけられて本人が知らないまま没収された現場では失笑を禁じえなかった。
その他に印象に残っている同級生としては、およそ以下の通りだろうか。
・怒りのあまり自習の時間に教室の壁に絵の具で落書きをした男
・放課後に悪戯で黒板消しクリーナーに水を大量に注いだ男
・校舎のベランダに閉じ込められて怒り、扉を蹴飛ばして鍵ごと破壊した男
・ライトノベルを愛読しており、黒板一面に「撲殺天使ドクロちゃん」の絵を描いた男
・昭和レトロを愛して十八番は「リンゴの唄/並木路子」、単語帳の例文をほぼ覚えた男
・机の周りが異様に散らかる男(名字をとって通称「〇〇ワールド」)
・文化部(将棋部だったか?)でありながら怪力の持ち主で趣味が手品の男
etc.. と、法律に触れないエピソードに限ってもこの濃さである。これらの交友関係、ひいては生活環境に身を置いた6年間が後の人生に如何程の影響を及ぼしたかは計り知れないのは言うまでもないであろう。他クラスの黒板を消すために学年中の全クラスの時間割を把握しきった私の言えた義理ではないのだろうが。
2021年12月8日。この世を生きる人の大多数にとっては何でもない、ただの平日であるこの日が、私にとってはとても特別な日であった。
私がこの世に産まれて、10000日目となる日なのだ。
この日を何事もなく迎えられた事を小さく悦びながら、これを契機として我が半生を大まかながらも振り返ってみようと思う。
(実際には、本文章は2022年に入ってからも何度か加筆及び修正を行っております)
1994年7月23日、私は東京都23区内のとある病院で生を受けた。
私自身の事ではないので詳細は調べていないが、父は大崎に事業所を置く印刷会社の経理部門、母は地方の銀行員という、ややありふれた夫婦の間の長男であった。私が産まれてほどなくして、両親と姉と私の4人は目黒区にある区営の施設にて寝食を営むことになる。
私の「意識」が芽生えたーー脳が視覚を認知するようになったーーのは、2歳頃だろうか。そうなってから初めての夜に摂った食事で、炊いた白米に納豆を乗せて食した記憶がある。
4歳の4月から、保育園に通っていた。保育園の近くにある区営の森林公園によく繰り出した事が印象的であるほか、家に歯ブラシを忘れて先生に叱られたり、卒園式の練習中での雑談で当時の流行りであった「ミニモニ。」の歌を歌っていたりした記憶がある。
また、家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」のソフトで、著名なボードゲーム「モノポリー」やパズルゲーム「ボンブリス」をプレイし始めたのもこの頃である。徒歩2分ほどの所に住んでいた、母方の祖父(2021年12月現在89歳で存命である)に連れられ、営団メトロ(現、東京メトロ)の一日乗車券を用いて散歩をしたのも良き思い出である。
小学校の頃の私は、今にして思えば、稀代の変わり者であったろうと思われる。この時分には夕方ごろのアニメが多く、金曜日に幼少期から引き続きとなる「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、月曜日は「金田一少年の事件簿」「名探偵コナン」、木曜日に「とっとこハム太郎」「ポケットモンスター」、火曜日は「ミルモでポン!」「コロッケ!」、、といった具合だ。土曜日の朝には「星のカービィ」「ひでまる」、日曜日は朝に「おジャ魔女どれみ」、夜には「こち亀」「ワンピース」、また後に「あたしンち」が加わる事になる。私にとっては、これらのアニメが現在に至るまでリアルタイムで視聴した代表的なアニメであろう。
ゲームに関しては、SFCのアクションゲームである「スーパードンキーコング」シリーズと、ファミコン時代のスーパーマリオシリーズが一通り遊べる「スーパーマリオコレクション」が最も熱かった記憶がある。また、知名度がお世辞にも高いとは言えない名作パズルゲーム「クオンパ」やPCゲームとしてよく見かける「鮫亀」など、多数のパズルゲームが人生を彩っていた。
母の仕事の都合等により途中で転校も経験するが、この頃に私の人生の転機となったのは「中学受験」であろう。将来を見据えた両親により、目黒駅から1分ほどで歩ける距離にある学習塾に通うことになる。また、この関係で東急バスの通学定期券を所持するようになり、行動範囲が大幅に広がった。もとより気が弱い私は、得意であった算数の課題に関した相談も同級生から持ち掛けられた事もあったが、同じ講習の受講性仲間との衝突も多く泣かされる事も少なくなかった。
また、もう一つ大きな転機としては、小学校6年時の8月に起きた転倒事故だろう。塾の夏期講習に向かうために東急バスに乗っているのは前述の通りだが、自分がバス停を見られる位置に来た時にちょうどバスが到着していたのだ。これに乗り込むために駆け出したのだが、バス停の正面にある坂で前に転んでしまい、夏の暑さで半ズボンであった事もあって大きく擦り剝いてしまったのである。その後の講座は血を流しながらも平然と受講したのだが、翌日の通院にて膝付近で肉離れを起こしていた事が明らかとなり、医療用ホッチキスによって傷口が塞がるまで繋ぎ留めるリハビリ期間を要する結果となった。この傷は生涯消えることなく残り続けるのである。
そしていざ、6年生2月の受験期を迎えるのだが、今にして思えば受験勉強の殆どは身についておらず、試験問題に答えられる知識などまともに持ち合わせていなかった。
受験した中学校は当時の名称で「武蔵工業大学付属中学校」「桜修館中学校」「高輪中学校」「立正中学校」の4箇所。結果として、これらの全てに不合格となった。途方に暮れていた事も、学習塾に心理的な相談をした事もあった。この際の、当時の塾長に「自分を落とすような学校なんて『こっちから願い下げだ』くらいの気持ちでいればいいのさ(意訳)」という励ましを覚えている。
失意に暮れながら少しの間はそれまで通り小学校に通う日々であったが、ある時、家に一本の電話が鳴った。母親が応答をすると、その電話こそが「武蔵工業大学付属中学校への繰り上げ合格のお知らせ」であったのだ。この時に若輩者ながら「人生は何がどう転ぶか分からない」と感慨にふけった事はよく覚えている。
余談ではあるが、「むさこう」の受験をした際に手袋を忘れており、恐らく当時の事務局の方が手渡しで届けてくださったのだが、この方と入学式の日に再会して「よく受かったね!?」などと笑われたのも一つの思い出である。
この後に小学校の卒業式が行われる事になる、、のは当然の事ではあるのだが、特に外部へ向けた公開等も無いのに幾度にも渡るやたら入念な練習を行っていることに不思議な感覚を覚えていた最中の出来事であった。私は当時、1クラス2名ずつ選出される学級委員を務めており、卒業式では6年生の学級委員4名(クラスが2つだった)で校旗の四隅を掴んで運ぶプログラムがあったのだが、受験の疲労で免疫力が落ちていたためか、インフルエンザA型に感染してしまって39℃超えの高熱となり、卒業式の当日に欠席となってしまったのである。この関係で、小学校の同級生とは別れの挨拶をできないまま小学校を離れる事になったと同時に、結果的に式を潰しかけた背信感に暫くの間は苦しむ事になるのである。
かくして私は色々な思いを抱えながらも、武蔵工業大学付属中学校の第52期生として名を連ねる事となる。
私がこの世に産まれて、10000日目となる日なのだ。
この日を何事もなく迎えられた事を小さく悦びながら、これを契機として我が半生を大まかながらも振り返ってみようと思う。
(実際には、本文章は2022年に入ってからも何度か加筆及び修正を行っております)
1994年7月23日、私は東京都23区内のとある病院で生を受けた。
私自身の事ではないので詳細は調べていないが、父は大崎に事業所を置く印刷会社の経理部門、母は地方の銀行員という、ややありふれた夫婦の間の長男であった。私が産まれてほどなくして、両親と姉と私の4人は目黒区にある区営の施設にて寝食を営むことになる。
私の「意識」が芽生えたーー脳が視覚を認知するようになったーーのは、2歳頃だろうか。そうなってから初めての夜に摂った食事で、炊いた白米に納豆を乗せて食した記憶がある。
4歳の4月から、保育園に通っていた。保育園の近くにある区営の森林公園によく繰り出した事が印象的であるほか、家に歯ブラシを忘れて先生に叱られたり、卒園式の練習中での雑談で当時の流行りであった「ミニモニ。」の歌を歌っていたりした記憶がある。
また、家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」のソフトで、著名なボードゲーム「モノポリー」やパズルゲーム「ボンブリス」をプレイし始めたのもこの頃である。徒歩2分ほどの所に住んでいた、母方の祖父(2021年12月現在89歳で存命である)に連れられ、営団メトロ(現、東京メトロ)の一日乗車券を用いて散歩をしたのも良き思い出である。
小学校の頃の私は、今にして思えば、稀代の変わり者であったろうと思われる。この時分には夕方ごろのアニメが多く、金曜日に幼少期から引き続きとなる「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、月曜日は「金田一少年の事件簿」「名探偵コナン」、木曜日に「とっとこハム太郎」「ポケットモンスター」、火曜日は「ミルモでポン!」「コロッケ!」、、といった具合だ。土曜日の朝には「星のカービィ」「ひでまる」、日曜日は朝に「おジャ魔女どれみ」、夜には「こち亀」「ワンピース」、また後に「あたしンち」が加わる事になる。私にとっては、これらのアニメが現在に至るまでリアルタイムで視聴した代表的なアニメであろう。
ゲームに関しては、SFCのアクションゲームである「スーパードンキーコング」シリーズと、ファミコン時代のスーパーマリオシリーズが一通り遊べる「スーパーマリオコレクション」が最も熱かった記憶がある。また、知名度がお世辞にも高いとは言えない名作パズルゲーム「クオンパ」やPCゲームとしてよく見かける「鮫亀」など、多数のパズルゲームが人生を彩っていた。
母の仕事の都合等により途中で転校も経験するが、この頃に私の人生の転機となったのは「中学受験」であろう。将来を見据えた両親により、目黒駅から1分ほどで歩ける距離にある学習塾に通うことになる。また、この関係で東急バスの通学定期券を所持するようになり、行動範囲が大幅に広がった。もとより気が弱い私は、得意であった算数の課題に関した相談も同級生から持ち掛けられた事もあったが、同じ講習の受講性仲間との衝突も多く泣かされる事も少なくなかった。
また、もう一つ大きな転機としては、小学校6年時の8月に起きた転倒事故だろう。塾の夏期講習に向かうために東急バスに乗っているのは前述の通りだが、自分がバス停を見られる位置に来た時にちょうどバスが到着していたのだ。これに乗り込むために駆け出したのだが、バス停の正面にある坂で前に転んでしまい、夏の暑さで半ズボンであった事もあって大きく擦り剝いてしまったのである。その後の講座は血を流しながらも平然と受講したのだが、翌日の通院にて膝付近で肉離れを起こしていた事が明らかとなり、医療用ホッチキスによって傷口が塞がるまで繋ぎ留めるリハビリ期間を要する結果となった。この傷は生涯消えることなく残り続けるのである。
そしていざ、6年生2月の受験期を迎えるのだが、今にして思えば受験勉強の殆どは身についておらず、試験問題に答えられる知識などまともに持ち合わせていなかった。
受験した中学校は当時の名称で「武蔵工業大学付属中学校」「桜修館中学校」「高輪中学校」「立正中学校」の4箇所。結果として、これらの全てに不合格となった。途方に暮れていた事も、学習塾に心理的な相談をした事もあった。この際の、当時の塾長に「自分を落とすような学校なんて『こっちから願い下げだ』くらいの気持ちでいればいいのさ(意訳)」という励ましを覚えている。
失意に暮れながら少しの間はそれまで通り小学校に通う日々であったが、ある時、家に一本の電話が鳴った。母親が応答をすると、その電話こそが「武蔵工業大学付属中学校への繰り上げ合格のお知らせ」であったのだ。この時に若輩者ながら「人生は何がどう転ぶか分からない」と感慨にふけった事はよく覚えている。
余談ではあるが、「むさこう」の受験をした際に手袋を忘れており、恐らく当時の事務局の方が手渡しで届けてくださったのだが、この方と入学式の日に再会して「よく受かったね!?」などと笑われたのも一つの思い出である。
この後に小学校の卒業式が行われる事になる、、のは当然の事ではあるのだが、特に外部へ向けた公開等も無いのに幾度にも渡るやたら入念な練習を行っていることに不思議な感覚を覚えていた最中の出来事であった。私は当時、1クラス2名ずつ選出される学級委員を務めており、卒業式では6年生の学級委員4名(クラスが2つだった)で校旗の四隅を掴んで運ぶプログラムがあったのだが、受験の疲労で免疫力が落ちていたためか、インフルエンザA型に感染してしまって39℃超えの高熱となり、卒業式の当日に欠席となってしまったのである。この関係で、小学校の同級生とは別れの挨拶をできないまま小学校を離れる事になったと同時に、結果的に式を潰しかけた背信感に暫くの間は苦しむ事になるのである。
かくして私は色々な思いを抱えながらも、武蔵工業大学付属中学校の第52期生として名を連ねる事となる。