生誕10000日を迎えました。その1
2021年12月8日。この世を生きる人の大多数にとっては何でもない、ただの平日であるこの日が、私にとってはとても特別な日であった。
私がこの世に産まれて、10000日目となる日なのだ。
この日を何事もなく迎えられた事を小さく悦びながら、これを契機として我が半生を大まかながらも振り返ってみようと思う。
(実際には、本文章は2022年に入ってからも何度か加筆及び修正を行っております)
1994年7月23日、私は東京都23区内のとある病院で生を受けた。
私自身の事ではないので詳細は調べていないが、父は大崎に事業所を置く印刷会社の経理部門、母は地方の銀行員という、ややありふれた夫婦の間の長男であった。私が産まれてほどなくして、両親と姉と私の4人は目黒区にある区営の施設にて寝食を営むことになる。
私の「意識」が芽生えたーー脳が視覚を認知するようになったーーのは、2歳頃だろうか。そうなってから初めての夜に摂った食事で、炊いた白米に納豆を乗せて食した記憶がある。
4歳の4月から、保育園に通っていた。保育園の近くにある区営の森林公園によく繰り出した事が印象的であるほか、家に歯ブラシを忘れて先生に叱られたり、卒園式の練習中での雑談で当時の流行りであった「ミニモニ。」の歌を歌っていたりした記憶がある。
また、家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」のソフトで、著名なボードゲーム「モノポリー」やパズルゲーム「ボンブリス」をプレイし始めたのもこの頃である。徒歩2分ほどの所に住んでいた、母方の祖父(2021年12月現在89歳で存命である)に連れられ、営団メトロ(現、東京メトロ)の一日乗車券を用いて散歩をしたのも良き思い出である。
小学校の頃の私は、今にして思えば、稀代の変わり者であったろうと思われる。この時分には夕方ごろのアニメが多く、金曜日に幼少期から引き続きとなる「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、月曜日は「金田一少年の事件簿」「名探偵コナン」、木曜日に「とっとこハム太郎」「ポケットモンスター」、火曜日は「ミルモでポン!」「コロッケ!」、、といった具合だ。土曜日の朝には「星のカービィ」「ひでまる」、日曜日は朝に「おジャ魔女どれみ」、夜には「こち亀」「ワンピース」、また後に「あたしンち」が加わる事になる。私にとっては、これらのアニメが現在に至るまでリアルタイムで視聴した代表的なアニメであろう。
ゲームに関しては、SFCのアクションゲームである「スーパードンキーコング」シリーズと、ファミコン時代のスーパーマリオシリーズが一通り遊べる「スーパーマリオコレクション」が最も熱かった記憶がある。また、知名度がお世辞にも高いとは言えない名作パズルゲーム「クオンパ」やPCゲームとしてよく見かける「鮫亀」など、多数のパズルゲームが人生を彩っていた。
母の仕事の都合等により途中で転校も経験するが、この頃に私の人生の転機となったのは「中学受験」であろう。将来を見据えた両親により、目黒駅から1分ほどで歩ける距離にある学習塾に通うことになる。また、この関係で東急バスの通学定期券を所持するようになり、行動範囲が大幅に広がった。もとより気が弱い私は、得意であった算数の課題に関した相談も同級生から持ち掛けられた事もあったが、同じ講習の受講性仲間との衝突も多く泣かされる事も少なくなかった。
また、もう一つ大きな転機としては、小学校6年時の8月に起きた転倒事故だろう。塾の夏期講習に向かうために東急バスに乗っているのは前述の通りだが、自分がバス停を見られる位置に来た時にちょうどバスが到着していたのだ。これに乗り込むために駆け出したのだが、バス停の正面にある坂で前に転んでしまい、夏の暑さで半ズボンであった事もあって大きく擦り剝いてしまったのである。その後の講座は血を流しながらも平然と受講したのだが、翌日の通院にて膝付近で肉離れを起こしていた事が明らかとなり、医療用ホッチキスによって傷口が塞がるまで繋ぎ留めるリハビリ期間を要する結果となった。この傷は生涯消えることなく残り続けるのである。
そしていざ、6年生2月の受験期を迎えるのだが、今にして思えば受験勉強の殆どは身についておらず、試験問題に答えられる知識などまともに持ち合わせていなかった。
受験した中学校は当時の名称で「武蔵工業大学付属中学校」「桜修館中学校」「高輪中学校」「立正中学校」の4箇所。結果として、これらの全てに不合格となった。途方に暮れていた事も、学習塾に心理的な相談をした事もあった。この際の、当時の塾長に「自分を落とすような学校なんて『こっちから願い下げだ』くらいの気持ちでいればいいのさ(意訳)」という励ましを覚えている。
失意に暮れながら少しの間はそれまで通り小学校に通う日々であったが、ある時、家に一本の電話が鳴った。母親が応答をすると、その電話こそが「武蔵工業大学付属中学校への繰り上げ合格のお知らせ」であったのだ。この時に若輩者ながら「人生は何がどう転ぶか分からない」と感慨にふけった事はよく覚えている。
余談ではあるが、「むさこう」の受験をした際に手袋を忘れており、恐らく当時の事務局の方が手渡しで届けてくださったのだが、この方と入学式の日に再会して「よく受かったね!?」などと笑われたのも一つの思い出である。
この後に小学校の卒業式が行われる事になる、、のは当然の事ではあるのだが、特に外部へ向けた公開等も無いのに幾度にも渡るやたら入念な練習を行っていることに不思議な感覚を覚えていた最中の出来事であった。私は当時、1クラス2名ずつ選出される学級委員を務めており、卒業式では6年生の学級委員4名(クラスが2つだった)で校旗の四隅を掴んで運ぶプログラムがあったのだが、受験の疲労で免疫力が落ちていたためか、インフルエンザA型に感染してしまって39℃超えの高熱となり、卒業式の当日に欠席となってしまったのである。この関係で、小学校の同級生とは別れの挨拶をできないまま小学校を離れる事になったと同時に、結果的に式を潰しかけた背信感に暫くの間は苦しむ事になるのである。
かくして私は色々な思いを抱えながらも、武蔵工業大学付属中学校の第52期生として名を連ねる事となる。
私がこの世に産まれて、10000日目となる日なのだ。
この日を何事もなく迎えられた事を小さく悦びながら、これを契機として我が半生を大まかながらも振り返ってみようと思う。
(実際には、本文章は2022年に入ってからも何度か加筆及び修正を行っております)
1994年7月23日、私は東京都23区内のとある病院で生を受けた。
私自身の事ではないので詳細は調べていないが、父は大崎に事業所を置く印刷会社の経理部門、母は地方の銀行員という、ややありふれた夫婦の間の長男であった。私が産まれてほどなくして、両親と姉と私の4人は目黒区にある区営の施設にて寝食を営むことになる。
私の「意識」が芽生えたーー脳が視覚を認知するようになったーーのは、2歳頃だろうか。そうなってから初めての夜に摂った食事で、炊いた白米に納豆を乗せて食した記憶がある。
4歳の4月から、保育園に通っていた。保育園の近くにある区営の森林公園によく繰り出した事が印象的であるほか、家に歯ブラシを忘れて先生に叱られたり、卒園式の練習中での雑談で当時の流行りであった「ミニモニ。」の歌を歌っていたりした記憶がある。
また、家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」のソフトで、著名なボードゲーム「モノポリー」やパズルゲーム「ボンブリス」をプレイし始めたのもこの頃である。徒歩2分ほどの所に住んでいた、母方の祖父(2021年12月現在89歳で存命である)に連れられ、営団メトロ(現、東京メトロ)の一日乗車券を用いて散歩をしたのも良き思い出である。
小学校の頃の私は、今にして思えば、稀代の変わり者であったろうと思われる。この時分には夕方ごろのアニメが多く、金曜日に幼少期から引き続きとなる「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、月曜日は「金田一少年の事件簿」「名探偵コナン」、木曜日に「とっとこハム太郎」「ポケットモンスター」、火曜日は「ミルモでポン!」「コロッケ!」、、といった具合だ。土曜日の朝には「星のカービィ」「ひでまる」、日曜日は朝に「おジャ魔女どれみ」、夜には「こち亀」「ワンピース」、また後に「あたしンち」が加わる事になる。私にとっては、これらのアニメが現在に至るまでリアルタイムで視聴した代表的なアニメであろう。
ゲームに関しては、SFCのアクションゲームである「スーパードンキーコング」シリーズと、ファミコン時代のスーパーマリオシリーズが一通り遊べる「スーパーマリオコレクション」が最も熱かった記憶がある。また、知名度がお世辞にも高いとは言えない名作パズルゲーム「クオンパ」やPCゲームとしてよく見かける「鮫亀」など、多数のパズルゲームが人生を彩っていた。
母の仕事の都合等により途中で転校も経験するが、この頃に私の人生の転機となったのは「中学受験」であろう。将来を見据えた両親により、目黒駅から1分ほどで歩ける距離にある学習塾に通うことになる。また、この関係で東急バスの通学定期券を所持するようになり、行動範囲が大幅に広がった。もとより気が弱い私は、得意であった算数の課題に関した相談も同級生から持ち掛けられた事もあったが、同じ講習の受講性仲間との衝突も多く泣かされる事も少なくなかった。
また、もう一つ大きな転機としては、小学校6年時の8月に起きた転倒事故だろう。塾の夏期講習に向かうために東急バスに乗っているのは前述の通りだが、自分がバス停を見られる位置に来た時にちょうどバスが到着していたのだ。これに乗り込むために駆け出したのだが、バス停の正面にある坂で前に転んでしまい、夏の暑さで半ズボンであった事もあって大きく擦り剝いてしまったのである。その後の講座は血を流しながらも平然と受講したのだが、翌日の通院にて膝付近で肉離れを起こしていた事が明らかとなり、医療用ホッチキスによって傷口が塞がるまで繋ぎ留めるリハビリ期間を要する結果となった。この傷は生涯消えることなく残り続けるのである。
そしていざ、6年生2月の受験期を迎えるのだが、今にして思えば受験勉強の殆どは身についておらず、試験問題に答えられる知識などまともに持ち合わせていなかった。
受験した中学校は当時の名称で「武蔵工業大学付属中学校」「桜修館中学校」「高輪中学校」「立正中学校」の4箇所。結果として、これらの全てに不合格となった。途方に暮れていた事も、学習塾に心理的な相談をした事もあった。この際の、当時の塾長に「自分を落とすような学校なんて『こっちから願い下げだ』くらいの気持ちでいればいいのさ(意訳)」という励ましを覚えている。
失意に暮れながら少しの間はそれまで通り小学校に通う日々であったが、ある時、家に一本の電話が鳴った。母親が応答をすると、その電話こそが「武蔵工業大学付属中学校への繰り上げ合格のお知らせ」であったのだ。この時に若輩者ながら「人生は何がどう転ぶか分からない」と感慨にふけった事はよく覚えている。
余談ではあるが、「むさこう」の受験をした際に手袋を忘れており、恐らく当時の事務局の方が手渡しで届けてくださったのだが、この方と入学式の日に再会して「よく受かったね!?」などと笑われたのも一つの思い出である。
この後に小学校の卒業式が行われる事になる、、のは当然の事ではあるのだが、特に外部へ向けた公開等も無いのに幾度にも渡るやたら入念な練習を行っていることに不思議な感覚を覚えていた最中の出来事であった。私は当時、1クラス2名ずつ選出される学級委員を務めており、卒業式では6年生の学級委員4名(クラスが2つだった)で校旗の四隅を掴んで運ぶプログラムがあったのだが、受験の疲労で免疫力が落ちていたためか、インフルエンザA型に感染してしまって39℃超えの高熱となり、卒業式の当日に欠席となってしまったのである。この関係で、小学校の同級生とは別れの挨拶をできないまま小学校を離れる事になったと同時に、結果的に式を潰しかけた背信感に暫くの間は苦しむ事になるのである。
かくして私は色々な思いを抱えながらも、武蔵工業大学付属中学校の第52期生として名を連ねる事となる。